ドストエフスキーの名作『罪と罰』米川正夫(訳)の抜粋 / 『謎とき 罪と罰』江川卓

2017年11月8日ドストエフスキー, 海外の小説

あまりにも、あまりにも有名なロシアの文豪、ドストエフスキーの不朽の名作。

超個人主義に徹する貧しい大学生ロジオン・ラスコーリニコフは、『人間は凡人と非凡人とに分かれ、非凡人は既成道徳をも踏み越える権利を有する』 『一つの些細な犯罪は、数千の善事で償われる』という理論のもとに、強欲な高利貸の老婆を殺害し、奪った金を有効に転じようとします。
しかし、偶然その場に居合わせた老婆の妹まで殺害したことから、罪の意識にさいなまれます。
けれど、哀れな境遇ながらも、深い信仰に支えられる聖なる娼婦ソーニャによって、彼の心は救われ、ついに自らを、法と神の手にゆだねるのでした。。。

目次

分量が多いので2ページに分割しています。

1. 『罪と罰』 米川正夫訳で味わう名場面
2. 『謎とき 罪と罰』江川卓
3. その他の関連書籍

『罪と罰』 米川正夫訳で味わう名場面

引用は、昭和26年に発行された『新潮文庫 「罪と罰」 訳 :米川 正夫 』です。
訳自体が古いせいもあって現在では絶版になっていますが、格調高い名訳だと思います。
絶版になってしまったのが非常に悔やまれます。
(表紙のデザインも古典的で良い。私は米川版を手に入れるのに、古本屋を探し回りました)

「米川版=悪文」という見方もありますが、これは読み手の好みにもよるでしょう。

私は、古めかしい、もったいぶった言い回しが好きなので、米川版を一押しです。

※ この後、

ところで、一たい人間は 何をもっとも恐れているんだろう?
新しい一歩、新しい自分自身の言葉、これを何よりも恐れているんだ。
一体、“あれ”が俺に出来るのだろうか?
そもそも“あれ”が真面目な話だろうか?

『神様!』と彼は祈った。
『どうかわたくしに自分の行くべき道を示してください。
わたくしはこの呪わしい……妄想を振り捨ててしまいます!』

屋根裏部屋に下宿する大学生のロジオン・ロマーヌイチ・ラスコーリニコフは、貧しさに喘ぎながら、もう何日も一つの考えにとらわれています。それは悪どい高利貸の老婆アリョーナ・イヴァーノヴナを殺害し、その金を善事に役立てるというものでした。

“無知で何の価値も無いような意地悪な婆”は生きていても仕方が無い――そんな婆はいっそ殺して、その鐘を万人の福祉に役立てた方がよっぽど有効ではないか。

殺人は絶対悪であるけれど、ある正義のもとでは正当化される。

すべての人間は、『凡人』と『非凡人』に分かれ、ナポレオンやニュートンのような『非凡人』は、ある一線を踏み越え、新しい法律を創造する権利を有する――というのが彼の理論なのです。

そんな彼も、一度は良心の叫びから誘惑を振り切ろうとしました。

しかし、偶然、彼は翌日の夜七時にアリョーナが一人きりになることを聞きつけ、その後、彼と同じ理論を展開する大学生と将校のやり取りを耳にします。

【楽園追放 】~ The Fall from Grace ~ ミケランジェロ・ブオナローティ Michelangelo Buonaroti
【楽園追放 】~ The Fall from Grace ~ ミケランジェロ・ブオナローティ Michelangelo Buonaroti

やつを殺して、やつの金を奪う、ただしそれは後でその金を利用して、全人類への奉仕、 共同の事業への奉仕に身を捧げるという条件付きなのさ。
どうだね、一個の些細な犯罪は、数千の善事で償えないものかね?
たった一つの生命のために、数千の生命が堕落と腐敗から救われるんだぜ。
一つの死が百の生にかわるんだ。

彼はついに斧を手に取り、それを「実行」しました。

しかし、たまたまその場に居合わせた、アリョーナの善良な妹リザヴェータまで殺害したことで、彼は激しい罪の意識にさいなまれるようになります。

【 ナポレオンのアルプス越え】Napoleon Crossing the Saint Bernard  ジャック・ルイ・ダヴィッド Jacques Louis David
【 ナポレオンのアルプス越え】Napoleon Crossing the Saint Bernard ジャック・ルイ・ダヴィッド Jacques Louis David

老婆殺害を正当化するあたり、ラスコーリニコフが引き合いに出すのがナポレオンです。
ナポレオンのように突出した『非凡人』は、己を実現するために、正義や法律を踏み越える権利を持っている――というのが、彼の持論なのです。
こうした論理は、ラスコーリニコフに限らず、自己肥大した現代人の本質を物語っていないでしょうか。
「自分だけは特別」という自惚れ、「特別ゆえに踏み越えることが許される」という傲慢さ、それらを裏付けるのが、ラスコーリニコフの「非凡人説」だと思います。

即ち、『非凡人』は、ある種の障害を踏み越えることを自己の良心に許す権利を持っている。
人は自然の法則によって、概略二つの範疇にわかれている。
つまり自分と同様なものを生殖する以外に何の能力もない、いわば単なる素材に過ぎない低級種族(凡人)と、いま一つ真の人間、即ち自分のサークルの中で新しい言葉を発する天稟なり、才能なりを持っている人々なのです。
第一の範疇は現在の支配者であり、第二の範疇は未来の支配者であります。
第一の範疇は世界を保持して、それを量的に拡大して行く。
第二の範疇は世界を動かして、目的に導いて行く。
だから両方とも同じように、完全な存在権を持っているのです。

老婆の殺人事件を担当するにあたり、ラスコーリニコフこそ真犯人ではないかと疑う判事ポルフィーリィは、『非凡人はすべてを踏み越える権利を持つ』と説いた彼の論文を引き合いに出し、彼を追及します。

あらゆる人間が、『凡人』と『非凡人』に分かれるという点なのさ。
凡人は常に服従をこれ事として、法律を踏み越す権利なんか持っていない。
ところが非凡人は、特にその非凡人なるがために、あらゆる犯罪を行い、いかなる法律をも踏み越す権利を持っている、たしかそうでしたね……

こうしたラスコーリニコフの「非凡人説」に対して、ポルフィーリは非常にシンプルな問いかけをします。

一体どいういうところで、その非凡人と凡人を区別するんです?
生まれる時に何かしるしでもついてるんですか。
さもないと、もしそこに混乱が起こって、一方の範疇の人間が、自分はほかの範疇に属してるなどと妄想を起こして、あなたの巧い表現を借りると、『あらゆる障害を除き』始めたら、その時はそれこそ……

「その時はそれこそ……」に続く言葉は、『あらゆる悪が正当化される』といったところでしょうか。
これが単なる「小説の一セリフ」ではなく、現代に対する「預言」であることは、近年おこった事件・問題を見ればよく分かります。
自分自身を基準にして、物の善悪や要・不要を判断し、自分の気に入らないもの、要らないものは簡単に排除してしまう、その利己的な傾向を「一方の範疇の人間が、自分はほかの範疇に属してるなどと妄想を起こして、『あらゆる障害を除き』始めたら」という言葉で表現しているのです。
言葉はシンプルですが、非常に恐ろしい含みがあります。

そんなラスコーリニコフに対し、ポルフィーリィは、「ではその男の良心はどうなるのか?」と問い掛けます。
すると、さっきまで俊敏に切り返していたラスコーリニコフの論調がはたと鈍ります。
そして、ポルフィーリィはさらに彼を追及し、疑念を確信へと変えてゆくのでした。

*

こちらはロシア映画『罪と罰』より老婆殺しの場面。
江川卓さんの『謎とき『罪と罰』 (新潮選書)』にも解説がありますが、よく見ると、ラスコーリニコフは老婆を峰打ちにしています。
つまり、斧の刃は自分自身に向けられており、それが意味するところは、「自分自身の死」なのです。

この作品は、「良心の死」=ラスコーリニコフは老婆を殺害すると同時に、人間としての自分の魂をも殺してしまった、その『キリスト教的復活』を描いた作品ですから、この場面で『峰打ち』を用いたドストエフスキーの手法は、まさに完璧で緻密としか言い様がありません。

しかも、偶然その場に居合わせた大女のリザヴェータを殺害する時は、刃を振り下ろしています。

峰打ちで老婆を殺害し、人間としての良心を失ったラスコーリニコフは、リザヴェータを殺害する時はすでに「完全な殺人者」となっており、だからこそ、この第二の殺害が心に重くのしかかる――という流れを理解すると、この場面が、単なる「殺人」を描いたものではないことがよく分かります。

そんなラスコーリニコフにも愛する家族がありました。
利発で美しい妹のドゥーネチカと、父亡き後、必死で二人の子供を育て上げた母親です。
しかし、ドゥーネチカは、ラスコーリニコフの妹ドゥーネチカは、貧苦の兄を助けるために、愛してもいない金持ちの男ルージンと婚約します。
妹の純粋な愛と犠牲は、彼の心に重くのしかかり、彼をますます追い詰めるのでした。
このセリフは、『己一人のみ愛せよ、何となれば、この世の一切は個人的利益に基づけばなり』と、個人の利益追求が社会全体に利益をもたらすと説くルージンに対し、ラスコーリニコフが切り返す言葉です。

あなたがさっき主張したことを、極端まで押しつめると、
人を斬り殺してもいい、ということになりますよ……

ここで説かれる「究極の利己主義」は、ラスコーリニコフの「悪賢い老婆を殺害し、奪った金を社会に役立てる」という考えに共通しています。
『罪と罰』が「現代の預言書」と呼ばれる所以は、心の指針である「キリストの愛と教え」から離れ、各々が身勝手な欲求のもとに行動するようになる、現代人の心の闇をいち早く指摘した点にあり、ここでいやらしいほどに強調されるルージンの強欲さがその闇を物語っているように思います。

一人の死刑を宣告された男が、処刑される一時間前にこんなことをいうか、考えるかしたって話だ。
もし自分がどこか高い山の頂上の岩の上で、やっと二本の足を置くに足るだけの狭い場所に生きるような羽目になったら、どうだろう?
周りは底知れぬ深淵、大洋、永久の闇、そして永久の孤独と永久の嵐、この万尺の地に百年も千年も、永劫立っていなければならぬとしても、今すぐ死ぬよりは、こうして生きている方がましだ。
ただ生きたい、生きたい、生きて行きたい!
どんな生き方にしろ、ただ生きてさえいられればいい!
この感想は何という真実だろう! ああ、全く真実の声だ!
人間は卑劣漢にできている!
またそういった男を卑劣漢よばわりするやつも、やっぱり卑劣漢なのだ。

ラスコーリニコフの言葉

このラスコーリニコフの独白は、絶対的な心の指針から離れ、心の拠り所を亡くした人間の心情をよく物語っています。
にもかかわらず、「(信仰にしたがい、良き人間として)生きたい」と願う。
ここに彼の抱える強烈なアンビバレンツがあり、だからこそ、踏み止まることではなく、「一線を越える」ことを選んだラスコーリニコフの悲劇が際立つのだと思います。

【 放蕩息子の帰還】-The Wayfarer- ヒエロニムス・ボス Hieronymus Bosch
【 放蕩息子の帰還】-The Wayfarer- ヒエロニムス・ボス Hieronymus Bosch

そんなラスコーリニコフは、ふと立ち寄った酒場で、退職官吏のマルメラードフに出会います。
マルメラードフは、せっかく得た生活費もみな酒代に使い込んでしまうような酔っぱらいで、家族が食いつなぐ為に、とうとう娘ソーニャに身売りまでさせますが、そのわずかな稼ぎさえもせびって飲んでしまうような有様でした。

貧は悪徳ならずというのは、真理ですなあ。
ところで、洗うがごとき赤貧となるとね、書生さん、洗うがごとき赤貧となるとこれは不徳ですな。
素寒貧となると、第一自分のほうで自分を侮辱する気になりますからな。

この言葉は、「貧しさ」というものの本質を突いています。
「自分で自分を侮辱する気になる」というのは、貧しさゆえに自尊心が傷ついた人間の率直な気持ちと言えるでしょう。

どんな人間にしろ、せめてどこかしら行くところがなくちゃ、やり切れませんから。

深い言葉です。
「行くところ」というのは、いわゆる「心の拠り所」を意味するのだと思います。
退職官吏のマルメラードフは、いわば社会との接点を無くし、家族からも愛想を尽かされているような男で、当然、彼に慕い寄る友人もなければ、敬意を払ってくれる人もありません。
いわば、友もなく、仕事もなく、自分の居場所すらない孤独な人間であり、どこにも「行く当て」がないのです。
人間が「社会的存在」であることを考えると、どこにも「行く当てがない」というのは、いわば生殺しのような状態であり、誰にも必要とされず、やるべき仕事もないのは、空しさの極みと言えるでしょう。
その気持ちを、マルメラードフの「やりきれない」という言葉で表現しています。
そして、この「やりきれなさ」は、同時に、キリストの愛と教えから離れ、心の拠り所を失った現代人の孤独と不安を見事に言い当てているのです。

ただ万人を哀れみ、万人万物を解する神様ばかりが、われわれを憐れんでくださる。
最後の日にやって来て、こう訊ねて下さるだろう。
『意地の悪い肺病やみの継母のために、他人の小さい子供らのために、われと我が身を売った娘はどこじゃ?
さあ来い! わたしはもう前に一度お前を赦した……
もう一度お前を赦してやったが……今度はお前の犯した多くの罪も赦されるぞ……』
こうして、娘のソーニャは赦されるのだ。

飲んだくれのマルメラードフにも良心の疼きというものがありました。
それは、愛する娘のソーニャを売春婦にまで落としてしまったことです。
彼は馬車に轢かれ、絶命しますが、(この一件がラスコーリニコフとソーニャを引き合わせます)、死の間際、彼は必死に神に赦しをこい、最期は愛する娘ソーニャの腕の中で息を引き取ります。

この場面は、後のラスコーリニコフの「良心の回帰」の伏線になっていて、作品の重要なキーワードである『赦し』が初めて登場するんですね。
この『赦し』の意味を正しく理解するか否かで、読後がまったく違ってきます。
ある意味、この場面に、作品の本質が集約されていると言っても過言ではありません。

【マグダラのマリア】 ~Mary Magdalene~  ティツィアーノ Tiziano Vecelio
【マグダラのマリア】 ~Mary Magdalene~ ティツィアーノ Tiziano Vecelio

マルメラードフの死をきっかけに、ラスコーリニコフは信心深い娘のソーニャと出会います。
家族を養うため、娼婦に身を落としながらも、決して神の教えを忘れない高潔な女性です。

『じゃ、なんですの、カチェリーナ・イヴァーノヴナ(ソーニャの継母)、私どうしてもあんなことをしなくちゃなりませんの』
『それがどうしたのさ。何を大切がることがあるものかね? 大した宝物じゃあるまいし!』
ソーニャは立ち上がりましてな、ショールをかぶって、マントを引っかけ、そのまま家を出て行きましたが、八時過ぎに戻ってきました。
はいるといきなり、カチェリーナのところへ行って、黙って三十ルーブリの銀貨をその前のテーブルにならべました。
やがてカチェリーナが、これもやはり無言で、ソーニャの寝台の傍に寄りましてな、一晩じゅうその足元に膝をついて、足に接吻しながら、やがて二人はそのまま一緒に寝てしまいました…

しかし、そんなソーニャの犠牲と献身も、ラスコーリニコフの目には次のように映ります。

ああ、えらいぞ、ソーニャ!
だが何といういい井戸を掘りあてたものだ!
しかも、ぬくぬくとそれを利用している!
平気で利用してるんだからな!
そして、ちょっとばかり涙をこぼしただけで、すっかり慣れてしまったんだ。
人間て卑劣なもので、何にでも慣れてしまうものだ。

身売りすることにより、キリストの教えから「一線を踏み越えた」ソーニャは、いわば殺人者のラスコーリニコフと同類です。

初めは泣いて悲しんだ娘も、いずれその悪に染まって何も感じなくなってしまうものだ――というのが、彼のソーニャに対する第一印象であり、彼女に罪を告白した時も、

“>
「今の僕にはお前という人間があるばかりだ。
僕らはお互いに詛(のろ)われた人間なのだ。
だから一緒に行こうじゃないか!
お前もやっぱり踏み越えたんだよ……どうしたらいいかって?
破壊すべきものを一思いに破壊してしまう、それだけのことさ。
そして苦痛を一身に負うのだ!」

「だから一緒に行こう」というのは、キリストから離れて、彼の説く利己主義な人生への誘いです。
ここで言われる「破壊すべきもの」というのは、いまだ心に残っている人間としての良心と信仰であり、ラスコーリニコフはそれらの一切を捨て去って、欲望のおもむくままに生きようとソーニャを誘っているのです。

しかし、ソーニャの信仰心は揺るぎません。
キリストを信じ、『神様が守ってくださいます!』と繰り返す彼女に対し、ラスコーリニコフは意地の悪い快感を覚えながらこんな言葉を投げかけます。

だが、もしかすると、その神様さえまるでないのかもしれませんよ。

【 トマスの疑い 】- Doubting Thomas - ルカ・シニョーリ Luca Signorelli
【 トマスの疑い 】- Doubting Thomas - ルカ・シニョーリ Luca Signorelli

『ソーニャの取るべき道は三つある。濠へ身投げするか、病院に入るか、淫蕩の直中へ飛び込むか』。

にもかかわらず、ソーニャが心の清浄を保ち続けてきた理由が、罪という観念であり、家族への愛であり、神に対する信仰であることを悟った時、ラスコーリニコフは神秘的な思いでつぶやきます。

どうしてそんなけがらわしい賤しいことと、
それに正反対な神聖な感情が、ちゃんと両立していられるんだろう?

そして、ラスコーリニコフは、彼女の箪笥の上にあった新約聖書の『ラザロの復活』を読んでくれるよう求めます。

ラザロの復活は、「ヨハネの福音書」に記されています。

マリアとマルタの兄弟ラザロが、病気であった。姉妹たちはイエスのもとに人をやって、それを知らせた。
イエスはマリア、マルタ、ラザロを愛していた。
イエスが行くと、四日前にラザロは亡くなっていた。
イエスは涙を流し、どこに葬ったか訊ねた。
墓は洞穴で、石でふさがれていた。イエスはその石を取りのけるよう言った。
マリアは「四日もたっていますから、もうにおいます。」と言った。
イエスは、信じるなら神の栄光がみられる、と言った。
人々が石を取りのけると、イエスは天をあおいで言った。
「父よ、わたしの願いをいつも聞いてくださることを、わたしは知っています。
あなたがわたしの願いを聞き入れてくれるのは、周りの人々に信じさせるためです。」
こう言ってから、「ラザロ、出てきなさい」と叫んだ。
するとラザロが、手と足を布で巻かれたまま出てきた。
顔は覆いで包まれていた。
イエスは周りの人々に「ほどいてやって、行かせなさい」と言った。

普通に読めば、死者がびっくり蘇るインチキみたいな話ですが、これは、キリストによる「心の目覚め」を描いた寓話とされています。
「死んだラザロ」とは、心を失った状態の人間であり、「信じるなら神の栄光が見られる」というのは、「あなたが神の教えを信じるなら、迷いや苦しみから解き放たれ、真の心の平和と命を得ることができる」という教えです。

つまり、ラスコーリニコフは、老婆の殺害によって「死んだラザロ」であり、ソーニャ=神こそが、彼の死んだ良心を蘇らせる唯一のものであることを示唆しているのです。

【ラザロの復活 】- Raising of Lazarus - レンブラント・ファン・レイン Rembrandt van Rijn
【ラザロの復活 】- Raising of Lazarus - レンブラント・ファン・レイン Rembrandt van Rijn

歪んだ燭台に立っている蝋燭の燃えさしは、
奇しくもこの貧しい部屋の中に落ち合って、
永遠な書物をともに読んだ殺人者と淫売婦を、
ぼんやり照らし出しながら、もうだいぶ前から消えそうになった。

ソーニャによって「ラザロの復活」が語られるのは、小説の第四編――死したラザロがキリストの呼びかけによって蘇る“四日目”の奇跡になぞらえられています。(ちなみに『罪と罰』は、神が世界を創造したとされる「7日」になぞらえて、7章立てになっています)
奇しくも、ソーニャがラスコーリニコフに読んで聞かせる聖書は、彼が殺したリザヴェータがソーニャに与えたものでした。
ドストエフキーが「罪と罰」で描きたかった主題のすべてがここにこめられています。

僕はお前に頭を下げたのじゃない。
僕は人類全体の苦痛の前に頭を下げたのだ。

歴史に残る名セリフです。
ソーニャの一途で美しい心に打たれたラスコーリニコフは、彼女の前で全身を屈め、涙する彼女の足に接吻します。

【マグダラのマリア】~Mary Magdalene ~ドメニコ・フェティ Domenico Feti
【マグダラのマリア】~Mary Magdalene ~ドメニコ・フェティ Domenico Feti

「何だってあなたはご自分に対して、そんなことをなすったんです!」
「お前はなんて妙な女だろう。僕がこんなことをいったのに、抱いて接吻するなんて。
お前、自分でも夢中なんだろう」
「いいえ、いま世界中であなたより不幸な人は、一人もありませんわ!」
「じゃ、お前は僕を見捨てないんだね、ソーニャ?」
「わたしはあなたについて行く、何処へでもついて行く!
わたし懲役へだってあなたと一緒に行く!

かくしてラスコーリニコフは老婆殺しの全てをソーニャに打ち明けます。
彼の中には、恐ろしい罪を打ち明けることで彼女を苦しめたい反面、彼女なら受け止め、赦してくれるだろうという期待があったのです。

「いったい僕はあの婆を殺したんだろうか?
いや、僕は自分を殺したんだ、婆を殺したんじゃない!
僕はいきなり一思いに、永久に自分を殺してしまったんだ!」

「お立ちなさい! 今すぐ行って、四辻にお立ちなさい。
そして身を屈めて、まずあなたが汚した大地に接吻なさい。
それから、世界じゅう四方八方に頭を下げて、はっきり聞こえるように大きな声で、
『私は人を殺しました!』とおっしゃい!
そうすれば神様がまたあなたに命を授けてくださいます。
行きますか? 行きますか?」

ここに老婆殺しの本質と「復活」の主題が表現されています。
冒頭に登場したマルメラードフの死と赦しの伏線が、ここで大きく実を結び、ラスコーリニコフの魂の救済へと導いています。

【 無原罪の御宿り 】-The Immaclate conception- バルトロメー・E・ムリーリョ Bartolome Esteban Murillo
【 無原罪の御宿り 】-The Immaclate conception- バルトロメー・E・ムリーリョ Bartolome Esteban Murillo

ついに警察に自首したラスコーリニコフは、シベリアに流刑になり、ソーニャも彼についてシベリアに旅立ちました。
しかし、受刑中もラスコーリニコフは一向に罪を悔いることがなく、しまいに他の受刑者たちから「この不信心者め!」と反感を買うようになります。やがて彼とソーニャは二人して病気になり、しばらく会えない日が続きました。
そして、ようやく再会したある日、彼の心に劇的に改悛の情が訪れ、二人は互いの愛情を確信しながら、新しい日々に向かうのでした。

どうしてそんなことが出来たか、彼は自身ながらわからなかったけれど、不意になにものかが彼を引っ掴んで、彼女の足元へ投げつけたような具合だった。
彼は泣いて、彼女の膝を抱きしめた。
彼女はさとった。男が自分を愛している、しかもかぎりなく愛しているということは、彼女にとってもう何の疑いも無かった。

ついにこの瞬間が到来したのである。
二人の目には涙が浮かんでいた。

彼らは二人とも蒼白くやせていた。
しかし、この病み疲れた蒼白い顔には、新生活に向かう近い未来の更正、完全な復活の曙光が、もはや輝いているのであった。
愛が彼らを復活させたのである。
二人の心はお互い同士にとって、生の絶えざる泉を蔵していた。

七年、たった七年!
こうした幸福の初めのあいだ、彼らはどうかした瞬間に、この七年を七日とみなすほどの心持ちになった。

ドストエフスキーは、この作品を構成するにあたって、ネーミング、章立て、聖書やロウソクといった小道具、すべてにおいて、キリスト教に象徴されるものを用いています。
なぜ「7年」なのか、これはもう、言うまでもなく「神による世界の創造」になぞらえたものであり、「7」という数字を見ただけで読み手は納得するのです。

この「復活劇」をクサイ! という人も中にはあるようですが、これは推理や不条理を期待して読む物語ではありません。

『罪と罰』は、小説の手法をとったキリストの精神そのものであり、そこから離れようとする現代人に対する警告の書です。

ドストエフスキーが敬虔なクリスチャンだったかどうかは分かりませんが、少なくとも、キリスト教=精神生活における絶対的真理というものが人間と社会において必要不可欠であり、それを失えば人間も時代も混沌とするということをシビアに見抜いていた哲学者であり、社会学者でもあった・・という気がします。

もし彼が現代に生きていたら、この科学と経済の時代を何と表現したことか――。

ドストエフスキーこそ、この世に復活して欲しい、永遠の作家の一人です。
 
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