こんな男がなぜ生きているんだ! 淫蕩父と長男の修羅場 『カラマーゾフの兄弟』随想 (4)

カラマーゾフの兄弟, ドストエフスキー, 海外の小説

現代の精神的指導者『カラマーゾフの兄弟』随想(2)の続き。

第二編 場違いな会合 第六節 こんな男がなぜ生きているんだ!

金と女がらみから、長年疎遠だった父親と三兄弟が一同に会することになったカラマーゾフ家。
父親、イワン、アリョーシャの三人だった頃は意外と仲良くやっていたが、金と女に執着する激情家のドミートリィが加わったことで波乱が生じる。

この乱れきった家庭の全員の会合、というよりむしろ家族会議が、長老の僧庵で行われ、アリョーシャに極度に強い影響を与えたのも、まさにこのころだった。この会議の口実は、本当のところ、いい加減なものだった。
当時、遺産や財産上の勘定をめぐるドミートリィと父フョードルの不和は、明らかに、どうしようもないところまで来ていた。二人の関係はとげとげしくなり、堪えがたいものになってきた。どうやらフョードルが最初に、それもおそらく冗談まじりで、ゾシマ長老の僧庵にみなが集まって、たとえ直接の調停を頼まぬにしても、とにおかくなんとかもう少しきちんと話をつけようではないか、そうなれば、長老の位と風貌とが何かしら和解的な、暗示的な効果をもたらすかもしれぬから、という考えを出したらしい。

しかしながら、父や兄たちの性格を見抜いているアリョーシャだけは不安でたまらない。
淫蕩な父フョードルは、場を茶化すだけで、話し合いにすらならないのではないか。
学識豊かな次兄イワンはキリスト教の長老など見下して、当てこすりを口にするのではないか。
成り行きから家族会議に参加することになった前妻の父(三兄弟の伯父にあたる)ミウーソフは、慇懃無礼な嘲笑で、長老を辱めるのではないか。
唯一、真面目に向き合ってくれそうなドミートリィも、激しやすい性格を思えば、あまり頼りにならない……。

これを現代風に喩えれば、

父親・・なんでもギャグでごまかす、無知無教養な漫才師タイプ。
イワン・・高学歴で頭も切れるが、人情や誠実にはまるで興味がなく、他人の言うことも屁理屈で揚げ足取りをして、せせら笑うタイプ。
ミウーソフ・・世事を知り尽くした賢人を自負するが、実は何も分かっていない、尊大な田舎オヤジ。
ドミートリィ・・一見、普通の社会人だが、どこか捻くれたところがあり、何でも腹を割って話せるタイプではない。

おるおる、こういうヤツ。ドストエフスキーの時代から何も変わっていない。
禅宗の総本山みたいなお寺に出かけても、畏敬の念すらまるでなく、坊主の説法も茶化して、小馬鹿にするだけ、みたいな。

こんなヤツらが集まって、お金や女性問題について、冷静に話し合えると思うか。
たとえ町一番の賢人や人格者が仲介に入っても、場が乱れるのは目に見えている。

そして、不安は的中する。

第二編 場違いな会合

しかし今、司祭修道士たちのこうした最敬礼や接吻を見るなり、彼(ミウーソフ)は一瞬のうちに決心を変え、重々しいまじめな様子で市井風のかなり深いおじぎをすると、椅子の方に引き下がった。
フョードルもそっくり同じように振る舞った。今度はからかい面で猿のようにミウーソフの真似をしてみせたのである。
イワンはひどくもったいぶって丁寧におじぎしたが、やはり両手をズボンの縫い目につけたままだったし、カルガーノフはすっかり上がってしまい、全然おじぎもしないほどだった。
長老は祝福を与えるために上げかけていた手をおろすと、もう一度おじぎして、みなに椅子をすすめた。
アリョーシャの頬に血がのぼった。恥ずかしくなったのだ。
不安な予感が的中しつつあった。

このあたりの描写、見事。
高僧と名高いゾシマ長老がその場に現れ、他の司祭修道士や見習い僧は『指が血に触れるほど深いおじぎ』をし、長老の手に接吻して祝福を受けるが、尊大オヤジのミウーソフは礼儀を意識しながらも、長老にひれ伏すような僧の仲間入りをするのがイヤで、黙って椅子に着席。
フョードルはこんな時にも猿のようにおちゃらけ、ミウーソフの真似をして着席。
イワンは形だけは挨拶するが、手はポケットに突っ込んだまま(喩え)。
ミウーソフの遠縁で、世間知らずの青年のカルガーノフはすっかり上気して、礼儀も忘れる始末。
アリョーシャが恥ずかしく感じるのも無理はない。

しかし、おちゃらけフョードルにも一理はあるのだ。

「今、長老さまのお目を汚しているのは、本当の道化でございます! これがわたしの自己紹介でして、昔からの癖なんですな、ええ! ときおり場違いな嘘をつきますのも、わざとやることなんです。みなさんを楽しませて、気にられようというつもりでして。人間やはり、気に入られなけりゃいけませんからね、そうでしょうが?」

おるおる、こういうヤツ。

学生サークルにも、一人で悪ノリして、周りの顰蹙を買っているにもかかわらず、気づかない、止めない、必死でウケ狙いしている男性学生がいるだろう。
フョードルも全く同じパターン。
もうちょっと真面目にやれば好感を持たれるのに、照れか、プライドか、今更引っ込みつかなくて、ひたすら、おやじギャグを連発して、周りをしらけさせるアレ。
19世紀のロシアにもいたわけだ。どうすれば人に愛されるのか、まるで分かってない、不幸な人間の典型。
自分で自分のことを『わたしは生まれつき、根っからの道化でしてね』と弁明しているあたりが痛々しい。自虐ネタ。
『わたしが悪ふざけをするのもね、少しでも人気者になりたいからさ』という自己分析はまったくその通り。

そして、フョードルの、ちゃらけた葛藤はまっすぐに長老へと向かう。

「偉大な長老さま、どうぞはっきりおっしゃってくださいまし。わたしの活きのよすぎるのがお気にさわりますか、どうでしょう?」
ふいにフョードルが、肘掛け椅子の腕木を両手でつかみ、返事しだいでは跳びだしかねぬ勢いで叫んだ。
「あなたには切におねがいしますが、どうぞご心配やご遠慮はなさいませんよう」
長老が教えさとすように言った。
「ご遠慮なさらず、わが家におられるおつもりで楽になすってください。何よりも、そんなにご自分のことを恥ずかしくお思いにならぬことです。なぜって、それがすべての原因ですからの」

ここでいう『わが家』は、本来の自分自身でもある。いわば、長老は、フョードルが弱い自分を押し隠す為に、ふざけたり、嘘をついたりしているのを見抜いているのである。「楽になすってください」というのは、本来の自分自身をさらけ出してよいのですよ、という優しい促しでもある。

それについてフョードルはこう答える。

『そんなに自分のことを恥ずかしく思わぬことだ。それがすべての原因なのだから』とご注意くださいましたが、あの一言でわたしという人間をすっかりお見通しになり、はらの底までお読みになった感がございますね。
まさにそのとおりで、わたしはいつも、人さまの前に出るたびに、俺はだれより下劣なんだ、みんなが俺を道化と思い込んでいるんだ、という気がするもんですから、そこでつい『それならいっそ、本当に道化を演じてやれ、お前らの意見など屁でもねえや、お前らなんぞ一人残らず俺より下劣なんだからな!』と思ってしまうんです。わたしが道化なのも、そんなわけなんでして。羞恥心ゆえに道化になるんです」

*

「みんながすぐにわたしを感じのよい聡明な人間と見なしてくれると確信さえしていたら、わたしだってそのときはさぞ善良な人間になることでしょうからね!」

案外、殊勝なフョードル。根は善人ということ。
人は扱われたようになる、というのも、また然り。周りが馬鹿と思えば馬鹿であり続けるし、善人と仰がれれば、そのようになる。
人の哀れを感じさせる一文。

そんなフョードルに対して、ゾシマ長老はどう答えるか。

肝心なのは、おのれに嘘をつかぬことです。おのれに嘘をつき、おのれの嘘に耳を傾ける者は、ついには自分の内にも、周囲にも、いかなる真実も見分けがつかなくなって、ひいては自分をも他人をも軽蔑するようになるのです。だれをも尊敬できなくなれば、人は愛することをやめ、愛を持たぬまま、心を晴らし、気をまぎらすために、情欲や卑しい楽しみにふけるようになり、ついにはその罪業たるや畜生道にまで堕ちるにいたるのです。

これもすべて、人々や自分自身に対する絶え間ない嘘から生ずるのですぞ。おのれに嘘をつく者は、腹を立てるのもだれより早い。

なにしろ腹を立てるということは、時によると非常に気持ちのよいものですからの、ではありませんか?
なぜなら本人は、だれも自分を侮辱した者などなく、自分で勝手に侮辱をこしらえあげ、体裁をととのえるために嘘をついたのだ、一つのシーンを作りだすために、おおげさに誇張して、言葉尻をとらえ、針小棒大に騒ぎたてたのだ、ということを承知しているからです。
それを自分で承知しておりながら、やはり真っ先に腹を立てる。腹を立てているうちに、それが楽しみになり、大きな満足感となって、ほかならぬそのことによって、しまいには本当の敵意になってゆくのです」

後半部はまさにTwitter(ネット)の世界。

たとえば、誰かが「どこでも喫煙する人って、自分や周りの健康について、ちゃんと考えているのだろうか」と発言する。

多くの常識人は「そうだね」で通じるけど、一部の人は、「オレのこと言われた!!」とムキになり、「喫煙者を見下すな」とか「周りの健康を害しているという確たる証拠があるのか」等々、屁理屈でたたき出す。まさに「自分で勝手に侮辱をこしらえ」の状態。そして、それを正当化する為に、相手の非を無理矢理こじつける。そして、自分でも、それが正当な怒りでないことが分かっているから、ますますムキになり、いずれ敵意を抱くようになる……というのは、まさに上記の通り。

ドストエフスキーがSNSをやっていたら、同じ事を上手に比喩しただろう。

さて、一同の緊張が高まる中、ついに激情家のドミートリィがやって来る。 

長老の高潔な人柄に心を打たれた父フョードルは、イワンのことは『我が最愛の肉でございます!』と称えるが、金銭問題で悶着するドミートリィのことは『このほうはもっとも尊敬できぬフランツ・モールでございます』と揶揄する(シラーの『群盗 (岩波文庫)』に登場する異腹の次男のこと)。

それを聞いたドミートリィは、たちまち憤り、長老や皆の前で父子喧嘩をおっぱじめる。

父子の争点は二つ。

一つは、金銭をめぐる争い。ドミートリィは父フョードルが息子の取り分をせしめて、嘘をついていると思い込み、父フョードルはドミートリィが女遊びに金を使い込んだにもかかわらず、それ以上のものをせびろうとしていると腹を立てている。

二つ目は、女。ドミートリィにはカテリーナという美しい婚約者があるにもかかわらず、妖艶なグルーシェニカとも関係をもっている。が、ドミートリィ曰く、『あんたは今、僕があの女性にぞっこん参っていると、非難したけれど、その実、僕を誘惑するように彼女を焚きつけたのは、あんた自身じゃないですか! あんたが僕を刑務所にぶちこみたがっているのは、僕に嫉妬しているからなんだ』。

頭がおかしくなりそうなシチュエーション。

「それじゃ、親の祝福は何になるんだ? わたしが呪ったら、そのときはどうなる?」

「恥知らずの偽善者め!」ドミートリィは狂ったようにどなりつけた。

「それが父親に、父親に向かって言う言葉か! ほかの人が相手だったら、いったいどうなるんだろう?」

*

「僕は……心の天使であるいいなずけといっしょに故郷へ帰って、父の老後を慰めようと思っていたのに、見れば父は淫蕩なヒヒ爺で、下劣きわまる道化役者にすぎなかったんです!」

「決闘だ!」老人(フョードル)は息をあえがせ、一言ごとに唾をとばしながら、またわめきたてた。<中略>
「……それから、ドミートリィ君、君だっていいなずけをそんな≪牝犬≫に見かえたところを見ると、つまり、いいなずけは、あの女の踵ほどの値打ちもないと、君自身が判断したというわけだ。立派な牝犬じゃないか!」

これが父子の会話。

しまいにドミートリィは絶叫する。

こんな男がなぜ生きているんだ!

憎悪や憤怒を一言で表せば、そうなるだろう。

その後、ドミートリィはこう呟く。『この上まだこんな男に大地を汚させておいていいもんでしょうか?』。

また息子に侮辱されたフョードルも黙ってはない。こともあろうに、神聖なる僧庵の人々に食ってかかる。

ききましたか、え、神父さんたち、父親殺しの言うことをききましたかね?

「あれがあんたの『恥を知れ』に対する答えですよ! 何が、恥を知れだ! あの≪牝犬≫はね、あの≪身持ちの悪い女≫は、ことによると、あんたら修行中の司祭修道士なんぞより、よっぽど神聖かもしれませんよ! そりゃひょっとすると、あの女は若いころ、環境にむしばまれて身を持ちくずしたかもしれないけど、でも≪数多く愛し≫ましたからね、数多く愛した女はキリストもお赦しになったじゃありませんか……」
「キリストはそんな愛のためにお赦しになったのではありません……」
柔和なイォシフ神父がたまりかねて、吐き捨てるように言った。
「いいや、そういう愛のためです。まさしくそういう愛のためですぞ、神父さん!」

これがいかに破廉恥きわまりないか、というと――

牝犬=グルーシェンカは、現代風に言えば、尻の軽いアバズレだ。
「数多く愛し」というのは、「いろんな男と寝た」ことを”愛”に置き換えて、嫌みをいっている。
それを聖書に登場する罪深い女性に喩えているのだから、キリストの教えを土足で踏みにじるに等しい。

当然のこと、庵室のいたるところから『許せない、もう許せん!』という声があがる。

その時、この上なく意外な出来事が起きる。

ふいにゾシマ長老が席を立ち、ドミートリィの前にひざまずくと、居合わせた者たちにおじぎしながら、赦しておあげなさい! すべてを赦すことです!と言うのである。

その瞬間の描写は次の通り。

ドミートリィは数瞬の間、ショックを受けたように立ち尽くしていた。自分の足もとへの跛拝――これはいったい何事だろう? 
やがてふいに『ああ!』と叫ぶなり、両手で顔を覆って、部屋をとびだした。

この一言で、ドミートリィは改悛の情をもった人間であると分かる。その後の父親殺しも彼の仕業でない。本当に非人間的な者は自分を恥じたり、良心に背くようなことはしないからだ。
おそらく、居合わせた者たちの中で、ドミートリィこそ自分にも他人にも嘘のつけない人間ではないか。
取り繕うことなく、いつでも剥き出しの自我をさらけ出すから、周囲には傍若無人に映る。

ゾシマ長老は、いわば神的な存在であるから、こうして激高するドミートリィの前に跪き、周囲に赦しを乞うことで、この場の汚れも浄められたはずなのだ。にもかかわらず、殺人が起きるということは、この場に居合わせた者の仕業でないことが明らかである。
長老の慈愛でさえ何の救いにもならず、悪魔の方が打ち克ったとなれば、その後の展開が全て崩れてくるから。

ちなみに、その後のミウーソフとイワンの会話が意味深。

「せめて、われわれがここでしでかしたことを詫びて、あれがわれわれの仕業じゃないことを説明くらいしておかないとね……」

「そう、あれが僕らの仕業じゃないってことは、説明しとく必要がありますね。おまけに父もこないし」
イワンが言った。

「しでかしたこと」というのは、前述の恥ずかしいやりとり。
「僕らの仕業じゃない」というのは、自分はフョードルやドミートリィのような心卑しい者ではない、という意味。

カラマーゾフ一家は修道院の院長から食事に招かれるのだが、意外とフョードルは遠慮して立ち去る。『あんな非常識な振る舞いのあとで、まだ食事をよばれたり、修道院のソースに舌鼓を打ったりできますかいな? 恥ずかしくて、とてもいけませんや、失礼しますよ!』。

ここで院長の食事会に出席できるのは、礼儀正しいというより、神経が図太いか、元より恥など感じない無信心か、どちらか。
ミウーソフはイワンに対し、『まるで何事もなかったような顔で食事に行くんだからな。よほど鈍いし、カラマーゾフ的良心てやつだな』という印象を抱くが、この場合、良心というより宗教的感情の欠如と見る方が正解だろう。ゾシマ長老の慈愛も、父子の罪深い詰り合いも、なんとも思ってないから、平然と食事に行けるのである。
その点、まだフョードルの方が宗教的な羞恥心を持ち合わせ、心の中では悔いているのが興味深い。

赦しておあげなさい! すべてを赦すことです!

この世の全ての人、全ての過ちは、『赦し』によって救われる。
『無の境地』によって解脱する仏教と大きく異なるのは、まさにこの点だ。
もちろん、お釈迦さまもお赦しにはなるけれど、仏教における慈悲は功徳の一つであって、教義そのものではない。人の世の苦しみが煩悩から生じるとするなら、その対極にあるのは『無』であって、それが教えの核となっている。
対して、キリスト教は、アダムとイブが神のように賢くなろうと禁断の実を口にしたところから苦しみが始まる。つまり、神という真理から離れ、自分で勝手に考えたり、行動したり、その迷いや傲慢が苦しみの元になっているのだから、対極にあるのは、人間のエゴに対する赦しだ。
ゆえに、ゾシマ長老のこの一言が、キリスト教の真髄を表している。そして、物語において、対極に存在するのが、イワンの『神がなければ、すべては許される』である。

では、なぜゾシマ長老はドミートリィの足下に跪き、四方に頭を下げたのか。

理由は二つある。

一つは、この場を収めるには、ドミートリィが父親を赦す以外にないこと。

二つ目は、全人類に対する願いである。

なぜ父のフョードルではなく、ドミートリィが赦さねばならないのか。

どう考えても、育児放棄した放蕩オヤジの方が悪いに決まってるのに、ドミートリィが一歩譲るべきなのか。

これは神と人間に置き換えると分かりやすい。

まあ、世の中、理不尽はつきない。その度に、天を恨み、神を憎んでは、ますます子である人間は苦しむだけである。たとえ理不尽でも、子である人間の方は受け入れて、許そう。その過程で身につけた忍耐や寛容は必ず本人を幸福に導く。そして、周りの者も。

その道理がドミートリィにも分かるから、居たたまれなくなって、その場から逃げ出したのだ。本当にドミートリィが道理をわきまえない、ただの乱暴者であれば、恥は感じない。

ゆえにゾシマ長老は全人類に呼びかける。赦しておあげなさい! すべてを赦すことです!

赦しは、負けではない。一歩譲ったように見えて、赦した方が本物の魂の勝利者なのだ。

この章の名言

『えい、くたばりやがれ、こんなやつら。何世紀もかかってやっと作り上げたような顔をしてやがるけど、実際は偽善とでたらめじゃないか!』

ミウーソフが淫蕩のフョードルに、くれぐれも長老の前でふざけた態度はとるなと忠告し、それを聞いていた修道僧に「この人といっしょに、ちゃんとした人たちの前へ出るのがこわくてならないんですよ」と言った時、修道僧が微妙な無言の微笑みを浮かべたことに対して。

つまりこういう状況。

ミウーソフが淫蕩フョードルに「長老の前でふざけるなよ、真面目に話を聞けよ」と忠告。
その後で、一緒に居た修道僧に、「俺さぁ、こんなふざけたヤツと一緒に長老の所に行くのが恥ずかしいんだよね。こんなおちゃらけ野郎と同類に思われたらイヤじゃん」と同意を促す。
修道僧は、心の底で同意しながらも、「ニヤリ ( ̄-  ̄ )」。修道僧である手前、「そうっッスね。気持ちは分かります」なんて口が裂けても言えないない。
それについて、ミウーソフが「なにコイツ、気取りやがって」と心の中で毒づいているのが上記の台詞。

カラマーゾフの兄弟 ゾシマ長老