幸福とはどこにあるのでしょう? 『カラマーゾフの兄弟』随想(5)

カラマーゾフの兄弟, ドストエフスキー, 海外の小説

こんな男がなぜ生きているんだ! 淫蕩父と長男の修羅場 『カラマーゾフの兄弟』随想 (4)の続き

第五章 長老 四項 信仰のうすい貴婦人

高徳の僧、ゾシマ長老は大勢に慕われ、遠方から救いを求めて様々な人が訪れる。
とりわけ婦人らの信望は厚く、遠来の地主夫人も病気の娘リーザを連れてやって来る。

だが、高僧のゾシマとて不死身ではない。顔色のすぐれぬゾシマを見て、地主夫人は健康を気遣う。

「神さまはあたくしたちから、あなたをお取りあげなさいませんわ。まだ、いつまでも長生きなさいますとも」
母親が叫んだ(地主夫人)。

「……もし快活そうに見えるとしたら、そうおっしゃってもらえるほど、わたしにとって嬉しいことは、いまだかつて何一つありませんでしたよ。なぜなら、人間は幸福のために創られたのですし、完全に幸福な人間は、自分に向ってはっきり『わたしはこの地上で神の遺訓をはたした』と言う資格があるからです。すべての敬虔な信者、あらゆる聖者、あらゆる尊い殉教者は、みな幸福だったのです」

「ああ、なんというすばらしいお話。なんという大胆な尊いお言葉でしょう」
母親が叫んだ。
「お言葉の一つ一つが、心に突き刺さるような感じがいたしますわ。それにしても、幸福とは、幸福とはいったいどこにあるのでしょう?

ここで言う「完全に幸福」というのは、キリスト教的な魂の楽園を指していると思う。
あらゆる苦悩が、神から離れ、知恵の実を口にした事から発しているなら、真の楽園は再び神の意に適うことによって魂にもたらされる。
「神の意に適う」というのは、キリスト教的に正しいとされること、慈愛、清廉、忍耐、といったことだ。
世の中には様々な生き方があり、基本、誰がどのような生き方をしても誤りではない。
しかしながら、世の中には、神の啓示を得て高徳な生き方を選ぶ人もあり、そういう人にとって、人生は迷いなく、シンプルなものだ。
みな幸福だったというのは、使命を全うした充足感に他ならない。

そんなゾシマ長老に地主夫人は言う。

「あたくしが苦しんでいるのは……疑いです……」
「神への疑いですか?」
「……でも、来世ということが謎なのです! そしてだれも、だれ一人、これに答えてくれませんもの! やがてくる来世の生活という考えが、苦しいほどあたくしの心を乱すのでございます。 <中略> 何によって証明し、何によって確信すればよろしいのでしょう? ああ、あたくし不幸ですわ! こうして立って、あたりを見まわしてみると、どなたもみな、ほとんどすべての方が同じように、こんなことなぞ気に病んでいないのに、あたくしだけ、それに堪えぬくことができずにいるのでございます! これは死ぬほどつらいことですわ、死ぬほど!」
「疑いもなく、死ぬほどつらいことです。だが、この場合何一つ証明はできませんが、確信はできますよ」
「どうやって? 何によってですか?」
実行的な愛をつむことによってです。自分の身近な人たちを、あくことなく、行動によって愛するよう努めてごらんなさい。愛をかちうるにつれて、神の存在にも、霊魂の不滅にも確信がもてるようになることでしょう。やがて隣人愛における完全な自己犠牲の境地にまで到達されたら、そのときこそ疑う余地なく信ずるようになり、もはやいかなる懐疑もあなたの心に忍び入ることができなくなるのです。これは経験をへた確かなことです」

『実行的な愛』というのは、言葉で唱えるだけでない、実際に手を差し伸べ、生活に活かすこと。
しかし、『完全な自己犠牲の境地にまで到達』というのは、相当にハードルが高い。

ゆえに地主夫人は問う。

「一言で申してしまえば、あたくしは報酬目当ての労働者と同じなのです。ただちに報酬を、つまり、自分に対する賞賛と、愛に対する愛の報酬とを求めるのでございます。そうでなければ、あたくし、誰のことも愛せない女なのです!」

*

「その人(ある医者)はこう言うんです。自分は人類を愛しているけど、われながら自分に呆れている。それというのも、人類全体を愛するようになればなるほど、個々の人間、つまりひとりひとりの個人に対する愛情が薄れてゆくからだ。 <中略> だれかが近くにきただけで、その人の個性がわたしの自尊心を圧迫し、わたしの自由を束縛してしまうのだ」
「でも、どうしたらよいのでしょう? そんなときは絶望するほかないのですか?」
「ご自分にできることをなさい、そうすれば報われるのです。あなたはもう、ずいぶん多くのことをやりとげていますよ。なぜってそれほど深く真剣に自覚することができたのですからね! <中略> かりに幸福に行きつけぬとしても、自分が正しい道に立っていることを常に肝に銘じて、それからはずれぬように努めることですな。肝心なのは、嘘を避けることです、いっさいの嘘を。特に自分自身に対する嘘をね。 <中略> 実行的な愛というのは仕事であり、忍耐であり、ある人々にとってはおそらく、まったくの学問でさえあるのです

それに対するゾシマ長老の答えは次の通り。

かりに幸福に行きつけぬとしても、自分が正しい道に立っていることを常に肝に銘じて、それからはずれぬように努めることですな。肝心なのは、嘘を避けることです。いっさいの嘘を、特に自分自身に対する嘘をね。また、他人に対しても、自分に対しても、嫌悪の気持ちはいだかぬことです。内心おのれが疎ましく見えるということは、あなたがそれに気づいたという一事だけで、すでに清められるのです。もっとも、恐れというのはいっさいの嘘のもたらす結果でしかありませんがの。愛の成就に対するあなた自身の小心さを決して恐れてはなりませんし、それに際しての間違った行為さえ、さほど恐れるにはあたらないのです。

何一つあなたを喜ばせるようなことを言えなくて残念ですが、それというのも、実行的な愛は空想の愛にくらべて、こわくなるほど峻烈なものだからですよ。

空想の愛は、すぐに叶えられる手軽な功績や、みなにそれを見てもらうことを渇望する。また事実、一命をさえ捧げるという境地にすら達することもあります、ただあまり永つづきせず、舞台でやるようになるべく早く成就して、みなに見てもらい、誉めそやしてもらいさえすればいい、というわけですな。

ところが、実行的な愛というのは仕事であり、忍耐であり、ある人々にとってはおそらく、まったくの学問でさえあるのです。

しかし、あらかじめ申しあげておきますがの、あなたのあらゆる努力にもかかわらず、目的にいっこう近づかぬばかりか、かえって遠ざかってゆくような気がするのを、恐怖の目で見つめるような、そんな瞬間でさえ、ほかならぬそういう瞬間にさえも、あなたはふいに目的を達成し、たえずあなたを愛して始終ひそかに導きつづけてこられた神の奇蹟的な力を、わが身にはっきり見いだせるようになれるのです。

ゾシマ長老の言う「嘘」「恐れ」は、それに続く、カラマーゾフ一家の醜悪なやりとりに繋がります。

本当は純朴な人間なのに、周りにも自分にも嘘をつき、おちゃらけを演じる淫蕩父フョードル。

何が救いかを知りながら、激情に身を滅ぼす長兄ドミートリィ。

どちらも、ほんの少し気持ちを切り替えるだけで、幸福な方に行けるのに、恐れや疑いや自身に対する侮蔑から、それが出来ない。

「内心おのれが疎ましく見えるということは、あなたがそれに気づいたという一事だけで、すでに清められるのです」というのは、「こんな風に考える自分は傲慢なのかもしれない」と認め、受け入れた時点で、一つの谷を乗り越え、心も飛躍的に成長するという意味だろう。
しかし、フョードルやドミートリィのように、自分にも周りにも懐疑的で、ふざけたり、怒ってばかりいると、自分自身も周りも傷つけ、幸福からますます遠ざかってしまう。

『かりに幸福に行きつけぬとしても、自分が正しい道に立っていることを常に肝に銘じて、それからはずれぬように努めることです』というのは、まさにその通りなのだ。

それに続く、「舞台でやるようになるべく早く成就して、みなに見てもらい、誉めそやしてもらいさえすればいい」というのも、現代人と変わりない。

SNSに喩えれば、いい事を言ったり、いい行いをすると、すぐに『いいね!』を欲しがる心理だ。いいね欲しさに自分を大きく見せる人もあるだろう。
現実には、いい言葉も、いい行いも、相手の中で実を結ぶまで時間がかかる。
特に子育てなどは、何年、何十年の長丁場だ。
その空白に堪えられず、次から次に賞賛を求めて歩くのは、本当の愛でも善行でもない。

だから、ゾシマ長老は言う。『実行的な愛というのは仕事であり、忍耐である』。

周りに誉めそやされて気持ちイイというのは、単なる自己愛であり、虚栄心に過ぎない。

実行的な愛、即ち、病人の手足を洗ったり、子供にご飯を食べさせたり、視覚障害者が横断歩道を渡るのを手伝ったり、街角のゴミを拾ったり、そういう事はいちいちその場で賞賛されるものではないし、そうしたからといって、すぐに何かが報われるわけではないが、愛とはそういうものである。

それに続く、『あなたのあらゆる努力にもかかわらず、目的にいっこう近づかぬばかりか、かえって遠ざかってゆくような気がするのを、恐怖の目で見つめるような、そんな瞬間でさえ、ほかならぬそういう瞬間にさえも、あなたはふいに目的を達成し、たえずあなたを愛して始終ひそかに導きつづけてこられた神の奇蹟的な力を、わが身にはっきり見いだせるようになれるのです』という部分は、長くて分かりづらいが、現代風に喩えれば、こういうことだ。

例えば、子供の食事の好き嫌いを無くそうと、調理に工夫をこらし、高い食材なども買ってみたりする。ところが、子供というのは実に気まぐれで、一個1000円の桃だろうが、グラム2000円の松阪牛だろうが、嫌いなものは嫌い、ペッペと吐き出して、それで終わり。母親への感謝も同情もあったものではない。当然、あなたは苛つくし、「もう二度と子供の食事など作るもんか(`‐ω‐´)」という気分にもなる。食育を通して、我が子と愛を育むつもりが、どんどんその目的から遠ざかっていくのである。

そして、そんな自分自身に、恐れや不安も感じるだろう。私って、鬼母?? これではいけない……でもムリ……

そんな風に悩み、葛藤する瞬間にも、あなたの心には神が宿り、真実の愛に確実に近づいていく、とういことだ。

アリョーシャがドストエフスキーの良心とするなら、ゾシマ長老は最も高次な精神性といえる。

産業革命を経て、人々がいっそう困窮し、生き方を見失い、社会も混乱する中、ひたすら幸福と救済について考え続けたドストエフスキーの最終結論という気もするのだが、どうだろうか。


『カラマーゾフの兄弟』に関する覚え書きです。 気になる箇所をその都度ピックアップしているので、整合性に欠けるかもしれませんが、備忘録として楽しんで頂けると有り難いです。概要はこちら。