建築の理想と現実――あるいは自分との闘い 安藤忠雄『連戦連敗』より

建築の理想と現実――あるいは自分との闘い 安藤忠雄『連戦連敗』より

私が建築に非常に惹かれるのは、法律や物理を無視して柱一本立てられないからだ。

たとえば、絵や小説は、紙と鉛筆さえあれば、いつでも、どこでもアイデアを形にできるし、音楽だって、ピアノがなくても、歌ったり、手を叩いたり、いつでも作り出すことができる。

でも、建築は、実際に建たないことには分からない。

アンビルトアーキテクトのように、実作を前提としない思想としての建築も存在するが、普通一般、建築家を目指すなら、やはり頭の中のアイデアを形にしたいもの。実際に目の前に建って初めて作品の完成を実感するだろう。

しかし、未開の地ならともかく、どんな小さな町や村にも建築基準法というものがあるし、日照権もあれば、環境保護の理念もある。どれほど素晴らしいデザインを思い付こうと、突然、町中にビルは建てられないし、たとえ山の中、離れ小島の海辺でも、建物を建てるとなれば自治体の許可が要る。

そもそも、誰がそのデザインを買ってくれるのか。それも数千万だか数億の高い買い物だ。手作りのワンピースをヤフオクで売るようなわけにはいかない。

おまけに、屋根の向き一つとっても物理の法則に支配され、どれほどデザインが完璧でも、思い通りになるとは限らない。

これほど不自由かつ面倒な芸術を誰が進んでやりたがるのだろう。私なら頼まれてもお断り。きっと三年で嫌になるだろう。

だからこそ、その道を目指す人はすごいと思うし、こんな世界で業績を残す人は怪物級と思う。相当に精神が強くなければ、一度のNoで挫折して、二度と自分の理想など追わないはずだ。

建築家の安藤忠雄氏も、著書『連戦連敗』で『建築は闘いである』と説いておられるけども、まったくその通り。それも「頑張り」や「前向き」で乗り越えられるような闘いではない、泥沼、血みどろ系の持久戦である。五年、十年、時にはそれ以上。一つの作品を完成させる為に、それだけのテンションを維持できる人がどれほどいるだろう。

ところで、建築といえば『コンペ』。

近年では新国立競技場の騒動が印象に残っているが、昔から『建築コンペ』というのはいろんな噂がつきまとうものだ。「誰某の意向が強く反映された」とか「最初から結果ありきの出来レース」とか。ピアノやイラストのコンテストと異なり、総工費数千万~数十億を必要とする、巨大な企画である。途中で難に気付いても、一度、工事が始まったものは簡単には取り消せないし、建ってしまえば、はいソレマデヨ。「やっぱり屋根の形がおかしいから、もう少し上向きにして下さい」「失敗したから、削除します」とはいかないのが建築だ。デザインを考える方も必死なら、決議するのも命がけである。いかにデザイン的に優れても、工費が、市民が、という話になれば、一転二転するのが当たり前だし、結果、「なぜ、こんなものが……」一位に選ばれたら、勘ぐりしたくなるのが人情だろう。

そんなコンペの本質を、安藤氏はこう書いておられる。

コンペの役割、あるいは意義は、単なる芸術コンクールとしてではなく、その社会性にあるのだと思います。ある課題に対する建築家それぞれの提案の中から最も適切なものを選び出す、その過程で、時代の抱える問題と、進むべき道への手がかりが見えてくるのです。時代の文化を方向づける指針といってもよいかもしれません。

<中略>

しかし、先ほどの国際連盟のコンペを見ても明らかなように、歴史上行われてきた、そして現在行われているコンペの全てがその理想通りに実行されてきたかというと、そうではなく、むしろ多くの場合、理想とはかけ離れた状況にあったというのが実状でしょう。これは、一つの建造物をつくりあげていく過程に、多大な人間の動員と多額の資金の調達とが必要とされる。即ち、政治経済といった分野と関わらざるを得ない建築ゆえの必然かもしれません。

意志薄弱な人なら、それだけで止めてしまうだろう。

どれほど研鑽を積み、人並み以上の実力を備えても、自分以外の要素で勝負が決まるなら、最初から闘わない方がマシではないか。

にもかかわらず挑む理由はどこにあるのか。

なぜ建築家は、実作されない可能性の方が高いと分かっても、作らずにいないのか。

そこで無条件に「やる」と答えられる事自体が天職であり、才能だからだろう。

安藤氏いわく、

あまり負けばかりが続くので、最近は抵抗力がついたのか、落選の知らせを受けても全く動じなくなりました。一等案が創造性という点において明らかに魅力のないものであったり、私たちが拘ったコンペのルールを全く無視したものが無批判に「画期的である」として評価され優勝していたりと、腑に落ちないことが少なくない、何か自分が主催者側の計略に陥ってしまったような、そんな疑問を感じることもあります。

コンペの運営がどのように行われているかは、参加者である私達には窺い知ることはできない部分です。そしてその勝敗は、芸術的・文化的な事柄に加えて、政治経済といった諸要因が複雑に絡み合う中、建築家の預かり知らぬところで決定されるのが常なのです。

世の中って、きびちぃのぉ(T^T) 

それでも闘うんだぜ。

キミにやれるか?

けれども悪いことばかりではありません。コンペを闘っていると、現業ではなかなか関わりを持てないようなことについて考える機会が得られるものです。外国での国際コンペに参加すると、改めてその国の歴史や風土を振り返らざるをえないし、その都市がどのようなプロセスを経て現在の姿に至ったのかを勉強しなければなりません。敷地の近くにすぐれた建築家が仕事を残していれば、この機会に研究してみようと思いますし、プロジェクトが既存の歴史的建物の増築に関わるようなものならば、ごく自然にその様式をつくりだした前史にまで意識が及ぶものです。

このプラス思考と探究心。

結局のところ、勝つまで続けるか、途中で見切るかの違いなのだろう。

止めるのはいつでも止められる。

だが、勝つには続けることが必要。

止めれば、永久に勝てない。

この闘いを勝ち抜くためには、建築の内容はもちろん、その周辺の状況に目を配り、戦略を考えなくてはなりません。政治、経済、文化、社会、あらゆるものとの関わりの中で考え、連想ゲームのようにして一つの物語として仕事を組み立てていくのです。

<中略>

理想主義とはかけ離れた、非常にドロドロとした現実的な闘いですが、建築とは本来、社会を相手にしなければならない、きわめて泥臭い部分を内包する仕事です。画家や彫刻家といった芸術家と違い、一人で仕事を完遂し得ないのです。そして、常に、クライアントと施工者という他者を介してしか実現し得ない仕事でもある。さまざまなしがらみの中での闘いなのです。

<中略>

連戦連敗で、よくも懲りずに挑戦を続けると思われるかもしれません。ただ私は、立ち止まることが嫌いなのです。たとえ負けても、次があるならば、そこに可能性を求めたい。許される限り、前へ進んでいきたい。そのように考えているのです。

この世に思う通りに願いが叶う人など皆無だろう。

勝ったら、勝ったで、その次は完遂するまでの長い道のりがあり、それも順風満帆とはいかない。

でも、その度に落ち込み、傷ついても仕方ないし、本当にそうしたければ、やっぱり闘うしかないのだろう。

才能には、当然、持久力や自己修復力も含まれるし、突き詰めれば、楽天的であることが要求される。

見方を変えれば、「自分にもできる」と信じること、信じられること、それ自体が才能といってもいいかもしれない。

負けても、負けても、作り続けることができるのは、自分に才能があることを知っているからだろうね。

『連戦連敗』シリーズ

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