2018/06/05 改訂版 「親を捨てよ 家を出よう」「大学には行った方がいいの?」「好きなことをして生きるは正解か」を追記

映画『ベン・ハー』~聖書とキリスト教の物語~

映画『ベン・ハー』~聖書とキリスト教の物語~
大きな十字架を背負い、刑場へと向かうナザレの人を見て、ベン・ハーは叫びます。「この人は、僕に水と生きる力をくれた人だ。この人が一体何をしたというのだ?!」「この方は、人類のあらゆる苦痛を一身に背負うために、この世に生を受けられたのだ。ご覧、あの十字架に、人間のあらゆる罪が重くのしかかっているようではないか。これは終わりではない。始まりだ。いずれ、世界中の人々がこの方に付き従って行くだろう」
イエス・キリストの物語をベースに、復讐に燃えるベン・ハーの心の軌跡を描く大作。旧約聖書、新約聖書の物語も織り交ぜながら、映画史に残る名作をYouTubeのダイジェスト版きで紹介。

『聖書』。
それは、地球上のほとんどの国で翻訳され、営々と読み継がれてきた世界一のベストセラー。
・世界創世の歴史を堂々と綴った書物の一つ。← かなり強引な部分もあるが……。
・欧米を主とするキリスト教国、およびキリスト教徒の基本精神となるもの。
(ちなみに、「聖書」の次によく読まれているのは、「風と共に去りぬ」だそうです)

世界の歴史や情勢を解くにも、西洋文明を理解するにも、海外旅行するにも、とにかく「聖書」を知らなければ話にならない。
パレスチナ紛争? 何それ?
中東って、どうしてケンカが絶えないの?
なんでチャールズはカーミラと再婚できないの?
新聞やニュースを見ても、イマイチその心情が理解できないアナタ。
今すぐ聖書を読んでみて。(理由はそれだけじゃないんだけどサ)
「聖書知らずば西洋解せず」――すべてを解く鍵がここにある。

【サン・シストの聖母】より : detail -The Sistine Madonna- ラファエロ・サンツィオ Raffaello Sanzio
【サン・シストの聖母】より : detail -The Sistine Madonna- ラファエロ・サンツィオ Raffaello Sanzio

普通、「聖書」といえば、「旧約聖書」と「新約聖書」に二分される。
しかし、これはキリスト教における解釈であり、ユダヤ教には「新約聖書」は存在しない。
なぜなら、ユダヤ教徒にとっては、ノアやアブラハムやモーセを介して、唯一神(ヤハウェ)とイスラエル民族が契約を交わした「旧約聖書」のみが聖典であり、ユダヤ教ではイエスは救世主と認めていないからだ。
【詳しくは、その他の文献をご覧ください。これは歴史的にも政治的にも、非常に奥の深い話なので 】

ここではキリスト教精神に乗っ取って、「旧約聖書」と「新約聖書」について解説することにします。
一口に「聖書」といっても、何十冊もの本の集まりなので、簡単に話の流れだけ紹介しておきます。

旧約聖書 編

「最初に光あれ」
そう言って、神はたった七日間でこの世界をお創りになりました。(超ビッグバンだな)
しかし、神も七日目にはお疲れになったので、一休みされました。これが《日曜日》の起源です。
どうせなら、三日ぐらいお休みして欲しかった……。
【ユダヤ教では金曜日を安息日としています。しかし金曜日はイエスが十字架に掛けられた日なので、キリスト教では日曜日が休みになっています】

まず光と闇、続いて水と空、そして陸と海がつくられ、六日目に動物たちがつくられました。
それから、神はこの動物を治めるものとして、自分の姿に似せた人間を創ることにしました。
神は土(アダマ)の塵を集め、鼻から息を吹き込んで、男アダムを作りました。

ところがアダムはエデンの園で一人淋しそう。
神は思いました。「一人で居るのは良くない。そうだ、彼を助ける者を作ろう」。
こうしてアダムの肋骨から作られた命(エヴァ)が女です。

夫婦となった二人は、エデンの園で幸せに暮らし始めました。

【楽園追放 】~ The Fall from Grace ~ ミケランジェロ・ブオナローティ Michelangelo Buonaroti
【楽園追放 】~ The Fall from Grace ~ ミケランジェロ・ブオナローティ Michelangelo Buonaroti

「神」と「原罪」

「楽園からの追放」――それは、神から離れたが為に、心の平安を失うことを意味しています。
人間が「神なるもの(=道 LORD)」を見失い、心の平安を無くしてしまう事を意味するのかもしれません。
神の心(絶対的真理、正義)にしたがって生きる限り、人間は惑う事も、過つ事も無い。
けれど、人間が己の声(欲望)にのみ従って生きれば、何所へ暴走するか分からないからです。
人間は惑いやすく、かつ過ちやすい生き物です。
だからこそ正しい道を示してくれる「神」が必要なのではないでしょうか。

私が思うに、キリスト教というのは「道」を説く父性の宗教であり、どこまでも包容される母性の仏教とは根本から違い、
「個人の心の責任と生き方」に重きを置いているという印象があります。

日本は必死で欧米の文化や技術を取り入れてきましたが、母性の宗教をもつ、母性社会(今はその色も変わってきましたが)に、父性社会のものを融合させようとしても、どこか無理があるんじゃないでしょうか。
たとえば「個性重視の教育」とか。
「個の責任において、個を活かす」のと、「何でも包容される中で、個を主張する」には大きな差違があります。
「個」の自由と責任を認識せぬまま、やみくもに「個」を叫んでも、暴走するだけだと思うのですが……。

【ゴリアテの首をもつダヴィデ】- David with the Head of Goliath - カラバッジョ Caravaggio
【ゴリアテの首をもつダヴィデ】- David with the Head of Goliath - カラバッジョ Caravaggio

シナイ半島に逃れたモーセは、ホーライ山の炎の中から、「イスラエル人をエジプトより解放せよ」という神(ヤハウェ)のお告げを聞きます。
再びエジプトに渡ったモーセは、イスラエル人を連れて紅海を渡り、【この物語はチャールストン・ヘストン主演の〈十戒〉でお楽しみ下さい。紅海が割れるシーンは圧巻です】、シナイ山の麓にやって来ます。
ところが荒野での生活は厳しく、イスラエル人は不満たらたら。一人、シナイ山にこもったモーセは、「十戒」の刻まれた石版を神(ヤハウェ)より授かり、皆と共に安住の地カナンを目指します。【これがモーセを介してイスラエル人と神との間に交わされた“シナイ山の契約”です】。
イスラエル人は英雄ダヴィデ、その息子ソロモン王のもとで黄金期を迎えますが、ソロモン王の死後、国はイスラエルとユダ王国に分裂します。
そして紀元前70年、首都エルサレムはローマ軍によって攻め滅ぼされ、イスラエル人は国土と神殿を喪失したのでした。

★おまけ★

映画「インデペンデンス・デイ映画『ベン・ハー』~聖書とキリスト教の物語~」をご覧になった方。

巨大な宇宙母船にコンピューター・ウイルスを仕掛けた天才技師の名が《デヴィッド David》だった事を覚えていますか?
彼の父親はユダヤ教徒でした。
こんな所にも聖書の世界が生きてるんですよね。
【ラストの方で、クリスチャンもユダヤ教徒も一緒に手をつないで輪になるところが印象的でした。
「ユダヤ教か!」とボヤくクリスチャンの国防長官に、デヴィッドのお父さんが「何にでも欠点はあるさ」と答えるやり取りが効いてました】
ハリウッド映画一つにしても、聖書の世界を知ってるか否かで、見方がうんと変わってきますよ

新約聖書 編

ローマ帝国の圧政に苦しむユダヤ教徒(イスラエルの民)は、異民族を討ち滅ぼし、かつての繁栄を取り戻してくれる《救世主:メシア》の出現を待ち望んでいました。

そんな時、ベツレヘムの大工ヨセフとマリアの間に一人の男の子が産まれます。
息子は大天使ガブリエルのお告げどおりイエスと名付けられ、ヘロデ王の魔の手から逃れる為、エジプトのナザレで育てられました。

イエスは三十歳頃、バプテスマのヨハネより洗礼を授かり、四十日間、荒れ野にこもって修行しました。
悪魔の誘惑を撥ねつけ、聖霊の力に満ちたイエスは、十二人の弟子と共にガラリヤ湖畔の各地を巡り、人々に神の福音(喜ばしき知らせ)を伝え始めます。

やがてイエスのもとには大勢の民衆が集い、彼の教えに耳を傾けるようになりました。
しかし、ユダヤの祭司や律法学者、ローマの兵やパリサイ人といった時の支配者たちはイエスを疎み、敵視します。

やがてイエスは弟子の一人ユダの裏切りによって捕らえられ、「ユダヤ人の王」を名乗ったかどで有罪となり、十字架の磔刑に処せられました。
しかし彼の教えは、弟子や熱心な信者によって受け継がれ、世界中に広がっていったのです。

アダムとエヴァの犯した原罪を、“神の子”イエスが自らの血をもって贖ったとするのがキリスト教であり、「新約聖書」は、イエスの語った「福音」を中心にまとめられています。

【十字架磔刑】 The Cruci
【十字架磔刑】 The Cruci
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