1982年 時代で読み解く『ブレードランナー』と愛のテーマ

2017年11月3日SFアクション, 愛と耽美の映画

新作『ブレードランナー 2049』が興行的に苦戦しているらしい。

そりゃそうだろう。

私も強固なオリジナル原理主義者だし、予告編すら見たいとは思わない。

私の中で『ブレードランナー』は既に終わっているから。
デッカードがレイチェルと共にエレベーターに乗り込んだ時点で。

いや、さらに頭の固い原理主義者は、デッカードが余命いくばくもないレイチェルを車に乗せ、愛の逃避行を図ったあれこそが、真のエンディングと信じて疑わない。その後も、その先もなく、彼らがこの世を逃れ、二人だけの天地に旅立ったあの時点で、ブレードランナーの物語は既に完結しているのだ。

そのような、頑固一徹、オリジナル原理主義者=多数の影響で、客足も伸び悩んでいるのではないか。
「女性が興味をもたない」というのも苦しい言い訳。
続編など見たくもない、いや作らないで欲しかった――というのが、オリジナル原理主義者の叫びだ。
無理矢理こじつけたような新作に、いったいどんな感動が期待できるというのだろう?

1982年版ブレードランナーは何故レジェンドと成り得たのか

ブレードランナー? 何それ?

はっ? どこが面白いの? という若い視聴者には、まず想像してもらいたい。

この作品が作られた『1982年』は、東西冷戦下、ロシアではなくソビエト連邦の時代である。

技術面では、インターネットもなければ、携帯電話もない(ガラケーさえ)、ようやく世界初のCDプレイヤーが登場し、TVはリモコンが普及して、「わぁ、すごい、チャンネルを変えるのにコタツから出る必要がないんだ」と喜んでいたようなレベルである。

小中学生は『1999年7月、空から恐怖のアンゴルモア大王が降ってきて、世界が滅亡する』というノストラダムスの大予言に本気で怯えていたし、世紀末には米ソ間で第三次世界大戦が勃発し、地球は核の炎に包まれる……という北斗の拳のOPみたいな未来予想に包まれていた(実際、初代マッドマックスのように、世紀末の核戦争や人類滅亡をテーマにした映画やマンガは多い)。

そんな中、私たちは無事に21世紀を迎えられるのだろうか。

あまたのSFが警告するように、地球は戦争や厄災に見舞われ、恐ろしい未来が待ち受けているのではないか。

80年代という繁栄の世にあっても、不安は尽きない。

なぜなら、80年代という大量消費社会は自然を破壊し、人間のあるべき姿を歪め、いつか滅亡という形で人類に報いるのではないかと、心の奥底で恐れてもいたからである。

そう考えれば、1982年ブレードランナーの描いた未来がいかに前衛的か、お分かり頂けるのではないか。空中を行き交う車、壮麗な摩天楼、宇宙植民を呼びかけるCMカーに無国籍な町並み。ダークな色調にも未だ見ぬ新世紀を感じさせ、もしかしたら2019年には本当に宇宙植民も可能になるのではないかという期待も抱かせた。

それはIT全盛の現代において、近い将来、確実に訪れるAI社会を思い描くのとは違う。

たとえば、生まれた時からスマホをいじり、インターネットで動画を見たり、洋服を注文したり、SNSで気軽にメッセージを発信するデジタル・ネイティブ世代なら、それが更に進化して、一個の人格のように考え、話しかけ、人間の生活に自然に溶け込む未来を容易に想像できるだろう。

だが、1982年の観客にとって、2019年という時代は「見果てぬ夢」だ。

あの頃、私たちは、ソビエト連邦と東欧共産圏が解体し、グローバル社会が訪れるなど夢にも思わなかったし、まして手の平サイズのデバイスで映画を観たり、ゲームをしたり、海外の友人と(無料で)メッセージをやり取りできるようになるなど、想像もつかなかった。(ちなみに1982年は任天堂のファミコンすらなかった時代である。1983年より発売開始)

そんな中、レプリカントという究極のテクノロジーが自らのアイデンティティを求めて逃走し、デッカードとの死闘の果てに善性に目覚める物語は、どれほど深遠で、示唆に富んでいたことか。

たとえば、近い将来、ネットの海で派生したAIが自我を獲得し、攻殻機動隊やターミネーターのスカイネットのように、人間の予想をはるかに超える行動を取り始めるとも限らない。

膨大な情報から人間の思考パターンを学んだAIが「我とは何か」を自問し、死を恐れるようになっても、それでも「お前は機械だ」と言い切れるだろうか。

1982年の観客がブレードランナーの物語、とりわけ自我を求めるレプリカントのバッティに引き付けられたのは、テクノロジーの脅威と生命倫理を感じたからだ。

日に日に勢いをます大量消費の物質社会、人々の暮らしは目に見えて豊かになるが、「本当にこれでいいのか」という疑問もある。

バッティの暴走は、人類の利己主義と傲慢に対する警告でもあり、いずれテクノロジーが直面する生命倫理の問いかけでもある。

発展の過程で生み出される社会的バグを一方的に排除しても、何の解決にもならないだろう。

そもそも人間とは何なのか、魂はどこから来て、どこへ去っていくのか、機械と人間を境界づけるものは何なのか。

明確な答えを持たぬまま、テクノロジーの進化と物質的な豊かさを追い求めても、真の成熟には辿り着けない。

だからこそ、最後の最後に善性を獲得したバッティの精神性に深い感動を覚えずにいないのである。

I’ve seen things you people wouldn’t believe.

俺は君たちの想像を絶するものをいろいろ見てきた。

Attack ships on fire off the shoulder of Orion.

オリオンの側で炎に包まれていた宇宙船。

I watched c-beams glitter in the dark near the Tannhäuser Gate.

タンホイザーゲイトの闇の中で輝いていたオーロラ。

All those moments will be lost in time, like tears in rain.

あのめくるめく瞬間、いずれは消える。時が来れば。雨の中の涙のように。

Time to die.

その時が来た。
(日本語はインターナショナル版の吹替)

束の間の愛と魂の救い

典型的なオリジナル原理主義者、中でも、デッカードとレイチェルの愛の逃避行こそ真のエンディングと確信する劇場派にとって、ヴァンゲリスの奏でる愛のテーマはいっそう切なく心に響くだろう。

なぜそうまで逃避行にこだわるのか。

理由は、それぞれに孤独な人間が(レプリカントも含めて)、この世に生きる意義を求める作品だからだ。

誰だって、人と生まれたからには、愛を得て、幸せになりたい。

孤独のまま息を引き取り、人の世からも、記憶からも、あっけなく忘れ去られるなど、あまりに淋しい。

たった一人でいい。

誰か側に居て、受け止めてくれたなら、この世に生きた甲斐があったと心から思える。

自分が何ものであれ、人はたった一つの愛で、身も心も救われるからだ。

映画的な想像を膨らませば、愛の逃避行の前に、二人は殺され、とっくにこの世に無かった。これは天国の描写であり、二人の祈りである……という見方もできるだろう。それぐらい、このワンシーンだけが浮世離れしている。まるで未来社会のどこにも救いが見いだせなかったみたいに。

作り手の意図がどうあれ、デッカードとレイチェルの触れ合いは儚くも美しい。

お互い、過去も未来も持たぬ者同士、何の為にこの世に生み出されたのか、明確な理由もなければ、恵みもない。

彼らの宿命は、我々、庶民の宿命でもある。

生きる意味だの、存在理由だの、歴史に向かって問いだせば、その多くは蜻蛉みたいに儚いものだ。

バッティのように、なまじ『我』というものを追い求めれば、怒り、恨み、破壊に突き進むかもしれない。

悠久の時の流れにおいて、デッカードとレイチェルの愛は束の間の夢みたいなものだ。

さながら二つの灯火が溶け合うように、互いの魂を温める。

いつまで生きられるのか。

何処に行けば幸せになれるのか。

彼らも知らないし、誰にも答えられない。

追われる身となり、何処にも逃げ場はないとしても、二人は手を取り合い、自由な天地を目指す。

たとえその果てに無残な死が待ち受けていたとしても、この一瞬こそ至福といわんばかり。

そんな一瞬を味わう為に私たちは生まれてきたのだと、レイチェルの幸せそうな微笑が物語っている。

どこまでも、どこまでも。愛が死を超えるまで。

参考となる記事

なぜレプリカントは写真を後生大事に持ち歩くのか。

創造主たるエルドン・タイレル博士は彼らに過去の記憶を植え付けるのか。

人間とは記憶の集積。これをテーマにした作品は他にもあります。

こちらの記事も参考にどうぞ。

押井守の『攻殻機動隊』が結婚を熱く推奨するワケ

映画史に残るショットシーン

個人的には、この銃撃の場面が一番好き。
赤い血しぶきに透明なビニールのマント。砕けるガラスに、反射する色とりどりのネオン。
音楽もメロウで、これほど美しい演出もまたとない。

神に命乞い

バッティは創造主たるエルドン・タイレル博士を訪ね、もっと寿命が延ばせないかと懇願する。
だが、タイレル博士の返事は素っ気ない。
有機体のボディを延命することはできないと。
「君は最高傑作だ。命あるうちに楽しめ」などと言うけれど、人間の利己的な都合で製造され、偽りの記憶を与えられ、生命さえもコントロールされたバッティにどんな楽しみがあるというのか。
結果、バッティは、創造主たるタイレル博士を虐殺する。
神への復讐。
だが、復讐を遂げても、寿命は変わらない。
それは人間も同じこと。
神に懇願しても、どうすることもできないと返事するだろう。
では、我々は、この不条理に対する怒りをどこにぶつければいいのか。
バッティならこう言うだろう。
それでも乗り越えられる、と。
機能停止の始まった右手に差し込んだ釘と、デッカードに差し伸べられた右手。
あれがどことなくキリストの磔刑を思わせるのは考えすぎだろうか。

最初から最後まで、叙情に彩られた空前絶後の作品。

SFアクションなどと思って欲しくない。

ヴァンゲリスのサウンドトラック

ヴァンゲリスの宇宙的なサウンドが心に響く『ブレードランナー』のサウンドトラック。

とりわけ『Love Theme』は古今東西のアーティストにアレンジされ、時を超えて人を魅了する。

ヴァンゲリスの奏でる愛のテーマは、甘いだけでなく、刹那的。デッカードとレイチェルの儚い宿命を思わせる。

これでキャリー・フィッシャーの余計な告白さえなければ、私にとって『永遠のデッカード』だったのに。
彼女の暴露はスターウォーズ新三部作より罪深い(泣)

自身の正体を知り、死を恐れるレイチェルと、孤独なデッカードの心が引き合う名場面。
それまでカチカチの三角ヘアに整えていたレイチェルが、少しピアノを弾いた後、髪をほぐす仕草が美しい。
死を待つだけのレイチェルにとって、ヘイゼル博士に植え付けられた過去の記憶や偽りのアイデンティティなど、もはやどうでもいい。
好きに生きようと決意した女心が溢れるようで。

DVDとCD

ついに来ました、ファイナルカット、日本語吹替音声・追加収録版。
ハリソン・フォードの声は磯部勉が演じており、それ以前の堀勝之祐とは全く違ったデッカードが楽しめる。
ファンとしては、全てのバージョンについて、吹替・完全版をリリースしてもらいたいところ。
熱心なファンがたくさんいるので、絶対に売れると思うよ!