都市こそ人間の精神の基盤 安藤忠雄の『連戦連敗』より

都市こそ人間の精神の基盤 安藤忠雄の『連戦連敗』より

『クールジャパン』が積極的に言われるようになり、「これからの世界の中心は東京!」「外国人はみな東京はクールだと思っている!」という論調で湧いていた頃、ある有名ブロガーが「外国のインテリ層は東京のごみごみした町並みなどクールとは思わない」「アキバ的なカルチャーに熱中するのは海外でも下層の方で、そういう人はパリの観光客みたいに滞在費に何百万円と使ったり、アニメ文化のスポンサーになったりしない」といった内容の記事を書いたら、自称・愛国者や、(おそらく)海外経験の無い人たちに猛烈にパッシングされていたのを思い出す。

確かに日本のアニメ文化や東京のごったとした町並みが好きというファンは数多く存在するが、そういう人が文化的に価値を押し上げたり、強力なスポンサーになるかといえば、決してそうではなく、実態は、青木ヶ原の樹海で遺体を笑いものにしたYouTuberみたいに、ウォッシュレット便器や美少女キャラやたこ焼きなどを面白おかしく伝えるだけで、ギャグのネタでしかない。以前は、日本文化といえば、着物、能楽、歌舞伎、相撲、禅寺など、伝統的なものが取り上げられて、海外のインテリ層を引きつけてきたが、今は変なモノやおかしなモノばかりが強調され、アジアの巨大歓楽街としか見なされてない。それは文化的興味ではなく、消費志向に近いものだ。それでも日本が世界に知られるならそれでいい、たくさん観光客が訪れて、お金を落としてくれるだけでいい……というなら、その通りだし、それも一つの道筋とは思う。だが、彼らが本当に愉しんで、高く評価しているかといえば、決してそうではなく、あまりにも彼らの伝統的なカルチャーからかけ離れた、下品で滑稽な部分を笑いものにしている、という事実も認めた方がいい。喩えるなら、吉本新喜劇を見てゲラゲラ笑ってるようなものだ。現実社会において、お父さんがステテコ姿で鼻の穴に箸を突っ込んで、「かい~の」なんか言わないし、お巡りさんが犯人と一緒にズッコケたり、女の子が男性に足蹴にされて「何さらすんじゃ、ワレー」と凄みをきかせることもない。現実にはあり得ない、はちゃめちゃなギャグをかますから、お客さんもゲラゲラ笑うのであって、クールジャパンもそれに似たところがある。ウォッシュレットも、美少女キャラも、キャバクラのネオンサインも、日本人はユニークでクールな文化と自負しているかもしれないが、海外の平均的な庶民やインテリ層から見れば、あまりにも自分たちの常識や知的水準からかけ離れているから、「面白い」と言ってるだけで、日本人の考える『文化』とは全く違う次元でとらえているのが実情ではないだろうか。

それはサブカルチャーのみならず、町作りも同様と思う。

以下、安藤忠雄の『連戦連敗』より。

私は建築の設計を職業としていますから、その計画を規制する条件である建築基準法や都市計画法など建設に関する法規はごく身近な存在です。これらは本来、日本に建設される建物について、ある一定水準の質を保証することで、快適で豊かな都市空間をつくることを目指して定められたものです。

ところが、実際に建築設計の現場に身を置いていると、この法規が逆に都市空間を貧しくしたり、都市全体を構想する上でもマイナスに働いている状況に出くわすことが多々あります。要するに、今日の役所が制限の規則として用いる都市計画、即ちマスタープランの作成からゾーニング、街区性格、道路計画、住区計画といった仕組み自体が、雑多な要素を吸収しながらものすごい速さで絶えず変化している都市の実情とすっかりズレてしまっているのです。

<中略>

そもそもの問題は、これらの法体系が、大正期日本が急速な近代化を進める中で、西欧の都市から持ちこまれ、理念もなくその構成原理のみを踏襲してしまったことにあったと思います。始まりの時点から既に現実の状況は全く蒸しされていた。19世紀中頃、パリを大変身させたオスマンの都市改造も、それまで都市構造を一変させる構想を打ち立て、強引に推し進めましたが、少なくとも無秩序な街に骨格をつくるという明快な目標をもっていました。だからこそ、100年経った今も、そのシステムが文化都市パリの礎となるシステムとして生き続ける。

それに対して日本の都市開発の出発点は、拠って立つ理念もなく、目標も曖昧なまま、ただ輸入した形式をそのままなぞることから始めてしまったのです。そこに軋みやズレが生じるのは当然です。

<中略>

役所は今もって、この都市計画法の下でしか都市を考えることができない。一方で、市民側にも都市に対する公的な精神が欠落してしまいますから、個人のエゴがむき出しになり、日本の都市はいまだ誇れる顔をもてないままです。もう少し、それぞれの都市の現状に合わせて変化する都市の動きに対応できるような柔軟なシステムが生まれれば、全体である都市と部分としての建築との間をよりよい関係でつなぐこともできると思うのですが、今もって変わることのない日本における縦割り行政やセクショナリズム、それに過剰な商業主義といったものがその実現を阻んでいるのです。

生粋の京都人には、京都という町の歴史や風土になみなみならぬ拘りがあり、(大きな声では言えないが)東京より格上だと思っているフシがある。

だから、「天皇陛下、退位なさったら、ぜひ京都にお帰りくださいませ」と言えてしまう。”引っ越し”ではなく、”お帰りなさい!”、これが京都人の偽らざる気持ちだ。

京都は、数ある都市の中でも、町並みへの拘りが強いし、法規制も厳しい。河原町界隈にお洒落な商業施設が次々に建ち並んでも、お茶屋のあたりは今も昔の風情が残っているし、高層ビルが建設できる場所も限られている。ちょっと歩けば、そこかしこに由緒ある仏寺や神社が建ち並び、源氏物語や歴史書に登場する地名や建物が本当にそこに存在する、というだけで、格別な気分にもなる。そうした日頃の歴史的、文化的体験が、「ぜひ京都にお帰りくださいませ」という自負と気風を作り上げるといっても過言ではなく、都市の在り方が個々の精神や美意識に大きな影響を及ぼしているのは確かだ。

実際、閑散とした町に暮らせば人の心も寂れてくるし、洒落た住宅街に暮らせば住人の気持ちも高揚する。心の持ち方は個人次第といっても、外的要素が精神に及ぼす影響は計り知れず、どんな不良もピカピカの校舎で学べば、ガラス窓の割りようがない、というのが本当だろう。

パリの住人も、パリに住んでいるからその基準に合わせるのではなく、パリの歴史と町並みが、人の心の持ちようをパリらしくさせるのであり、理念も目標も欠いた都市に、美や文化に対する愛着が育つはずがない。その町に暮らす人々が、自分の身の回りの快適と、自分が暮らす代のことしか考えなくなったら、ツギハギみたいな都市しか作れなくなるだろう。

それがどうした、住めればいいじゃないか、と思う人もあるかもしれない。

だが、都市環境というのは、確実に個々の精神に作用するし、美や歴史に対する関心と愛着は、理屈で教えられるものでなく、日々の体験によって培われるものだ。

長期にわたって、それが住む人の意識やセンスに大きな影響を及ぼすならば、やはり土台となる理念や方向性は必要だし、まして町並みを売り物のにして、地域の活性化を図るなら、一カ所、二カ所に、すごいものや面白いものを作ったところで、本物の求心力にはならない。なぜなら、『町』というのは、歩いて味わい、見て味わい、一体感を楽しむものだからだ。

私も戦争直後のことはよく分からないが、一帯が焼け野原と化した中、夢中で家を建て直し、商業施設を開き、必死で復興に努めた人々の姿が浮かぶ。すべてを失い、混沌とした中、都市の理念の百年の計だの、根本から考える間もなく、とにかく並の生活を取り戻すのに精一杯だったに違いない。

だとしても、もう十分に力は付いたのだから、これからいくらでも良き未来は作り出せるはずだ。

建築というものをピンポイントで考えるのではなく、まちづくり、くにづくり、というものを、もっと長いスパンで考えていただけたらと思う。

・・・とりあえず、自分の暮らす町が災害にどれぐらい強いか、リアルにシミュレーションしてみよう。

『連戦連敗』シリーズ

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