クリスマスとイエス・キリスト

キリスト教

今年のクリスマスは、イエス生誕2000年ということで、キリスト教圏では特別なお祝いの準備が着々と進んでいるようですが、日本では、1000年だろうが2000年だろうが、あまり変わりないみたいですね。日本じゃイベント扱いだから、仕方ないのかもしれませんけど。

だけど、イエス・キリストの名を使って派手に盛り上がるからには、せめてイエスの教えに敬意を表すのが礼儀じゃないの?

ということで、今回はイエス・キリストがテーマです。

私が初めてイエス・キリストに出会ったのは、七歳の時。
映画『ベン・ハー』を見たのがきっかけでした。

ユダヤの元王族であるユダ・ベン・ハーは、十年ぶりに親友メッサラに再会します。が、再会の喜びも束の間、猛進撃を続けるローマへの協力を拒んだベン・ハーにメッサラは憎悪を抱き、偶然の事故を契機に、ベン・ハー一家を陥れます。

捕らわれたベン・ハーは、死ぬまでガレー船を漕ぐため、鎖に繋がれて港に連行されます。しかし、その道程は、飢えと渇きにさいなまれる地獄の苦しみでした。ようやく辿り着いた村で、奴隷達は僅かな水を与えられますが、重罪人であるベン・ハーにはその水さえ与えられません。
さすがに力つき、地に倒れ伏すベン・ハーに、水を注ぎ、優しく介抱する者がありました。ベン・ハーは、差し出された水を飲み干し、生気を取り戻します。

それを見つけたローマの兵士は、その者を咎めるため、鞭を持って近づきますが、逆に、その眼差しに打たれ、手出しすることができません。

やがて奴隷の行進が再開し、ベン・ハーも鎖に繋がれたまま引っ張られて行きますが、ベン・ハーは水を与えてくれた者の顔を何度も振り返りつつ、水と生きる力を与えてくれたことに感謝するのでした。

ガレー船の漕ぎ手となったベン・ハーは、メッサラへの憎悪に支えられ、三年の歳月を生き延びます。その意志の強さに打たれたローマ軍の大将は、オールに繋がれた彼の鎖を解き、生き延びるチャンスを与えます。

やがてマケドニアとの大海戦が始まり、沈没寸前の船から脱出したベン・ハーは、戦火の中から大将を救い出し、一躍、英雄となります。

大将の養子に迎えられ、コロッセウムの華である戦車レースの技を習得したベン・ハーは、今も地下牢に幽閉されている母と妹を救い出し、仇敵メッサラに復讐するため、ユダヤの戦士として故郷エルサレムに帰還します。

そして、メッサラと命を懸けた戦車レースを繰り広げ、見事に勝利を収めますが、瀕死のメッサラから聞かされたのは、疫病に罹り、死の谷に追放された母と妹の哀れな顛末でした。

終わりのない憎悪に取り憑かれたベン・ハーに、彼を恋い慕うエスターは、涙ながらに訴えます。

「ナザレのお方もおっしゃっています。憎しみからは何も生まれない、敵を愛せ、汝を迫害する者のために祈れ、と。今のあなた様は顔付きまで醜くなって、まるでメッサラの憎悪が乗り移ったかのよう」

救えないなら、せめて一目、母と妹に会いたい、安らぎを与えたい──ベン・ハーとエスターは、疫病で変わり果てた母と妹を死の谷から連れ出し、ナザレの人の所へ連れて行こうとします。

が、街にたどり着いてみると、既にナザレの人は捉えられ、恐ろしい磔刑の罰が言い渡されたところでした。

大きな十字架を背負い、刑場へと向かうナザレの人を見て、ベン・ハーは叫びます。

「この人は、僕に水と生きる力をくれた人だ。この人が一体何をしたというのだ?!」

が、ローマの兵士は容赦なくナザレの人を鞭打ち、水を差しだそうとしたベン・ハーをも厳しく追い立てます。

磔にされたナザレの人の十字架の前で、ベン・ハーはつぶやきます。

「この人がどんな死罪になるような事をしたというのだ。ただ死ぬためだけに生まれてきたというのか」

すると、傍らにいた老人バルタザール(イエスが生まれた夜、天使のお告げにより馬小屋に礼讃した東方三博士の一人)が答えます。

「この方は、人類のあらゆる罪を一身に背負うために、この世に現れたのだ。ご覧、あの十字架に、世界中の苦痛がのしかかっているようではないか。これは終わりではない。始まりだ。いずれ、世界中の人々がこの方に付き従って行くだろう」

一方、恐ろしい磔刑を垣間見た母妹とエスターは、突然降り出した雨をしのぐため、刑場の洞穴に身を潜めます。

天地に雷鳴が鳴り響き、風が容赦なく吹き付ける中、母妹は、身体の焼けるような痛みを感じ、うめき声をあげます。

が、次の瞬間、雷光に照らし出された母妹の身体は、元の美しい身体に直っていたのでした。奇跡を喜ぶ母妹とエスターの元に、憎悪から解き放たれたベン・ハーが清々しい顔で戻ってきます。

「あの方は、死の間際、こう言われた。『父よ、彼らを赦したまえ。彼らは自分が何をしているのか分からないのです』。それを聞いた時、僕の心から怒りや憎しみが嘘みたいに消えていった」

愛と平和を取り戻したベン・ハー一家は、いつまでも固く抱き合いながら、ナザレの人の奇跡に心から感謝するのでした……。

というお話です。

*

CGも特撮も乏しい時代、『グラディエーター(剣闘士の復讐を描いた話題の超大作。12月22日レンタル開始。必見)』も真っ青の臨場感をコロッセウムに作り出し、名優チャールトン・ヘストンの顔の演技だけでイエスの『奇跡』を描き出した(ただ単に顔つきが“険しい”から“穏やか”に変わるだけなんですよ。すごい演技力です)名画だけあって、子供心にも非常にインパクトが強かった。

特に、ナザレの人が、自分の身体よりも大きな十字架を背負い、ローマ兵士に鞭打たれながら、民衆が嘲弄する中を、ゴルゴダの刑場に向かって歩いて行く場面が、身震いするほど恐ろしかった。人間とはここまで冷酷になれるものかと思いました。

それでも、最後はそれが偉大な力に昇華し、病や憎悪に苦しむベン・ハー一家に奇跡を起こした時、とても不思議な感動に包まれたのです。

見終わってから、親に、

「ベン・ハーって、有名な人? ハレルヤって、どういう意味?」と聞いたら、「ベン・ハーは物語の人物。でもナザレの人は本物や。あれはイエス・キリストの話なんや」との回答。

だけど、どうしても十字架の行進と磔刑の場面が忘れられなくて、八歳の誕生日に子供向けの伝記を買ってもらったのだけど、こんな恐ろしい物語は二つと無いような気がしました。磔という刑罰はもちろん、人々の嘲弄や、弟子の裏切り、ローマ兵の暴力、病や飢えや貧困など、そこに散りばめられた人間の闇の部分が――。

余談ですが、ある文献によると、磔刑というのは、罪人にじわじわと死の苦痛を与えるため、当時としては最悪の刑罰とされていたそうです。

絵画などでは、掌の真ん中に釘が打ち付けられていますが、実際には、身体の重みで掌が裂けないよう、手首の骨と骨の間に釘を打ち付けたといいますし、力尽きてくると、どうしても釘の部分に体重がかかる為、その痛みたるや発狂しそうなくらいだとか。

しかも民衆の前で裸で磔にされるわけですから、当然、嗤われ、罵倒され、人間として最悪の辱めを受けねばなりません。

その上、照りつける太陽と出血がどんどん身体の水分を奪うため、猛烈な喉の渇きに苦しめられるそうです。

罪人の苦痛を少しでも和らげるため、兵士が葡萄酒の浸みた布を槍の先端に巻き付け、罪人の口に運ぶこともあるそうですが、イエスはこれを拒否し、潔く死を受け入れたといいます。

そこで思うのは、イエスが誰のために、何のために、こうした苦痛を一身に背負ったかということ。

「この人が一体何をしたというのだ」の言葉通り、非常にシンプルな言い方をすれば、イエスはただ自分の思いを言葉にして伝えただけ、本当にそれだけ。時の支配者に謀略を企んだわけでも、財力に物を言わせて人を組織したわけでも、何でもない。その言葉に、多くの人々が心を動かされ、慕い寄り、生き方を変えていった、ただそれだけの話です。

にもかかわらず、彼の言動は磔刑に値する重罪として、時の支配者に断罪されました。裁判の場で、イエスは一言も弁解していません。どこかの教祖みたいに「全部、弟子がやったこと」と、のらりくらりと追及をかわすことも一切なかったし。

かくしてイエスは十字架を背負い、刑場に向かうのですが、その道程、『悲しみの道(ヴィア・ドロローサと呼ばれ、今も年に一度の聖金曜日になると世界中の巡礼者が祈り歩きに訪れるそうです)』を一人行くイエスの心中を、私はいつも思うんですよね。イエスは、一人十字架を担ぎ、何を思いながら歩いて行ったのかと。

聖書には、群衆がイエスに茨の冠をかぶせ、「ユダヤの王、万歳」と嘲弄し、唾を吐きかけ、葦の棒で叩き、さんざん辱めた様子が生々しく描かれています。

『ベン・ハー』では、遠くからその様子を見守っていた母親に、「ご覧なさい、さぞ苦しいでしょうに、あの晴れやかなお顔」と語らせています。

ルネサンス期ヴェネツィア派の巨匠ティントレットは、今にも力尽きそうなイエスの姿をリアルに描き、その苦しい息づかいが今にも聞こえてきそうだし、ヒロニムス・ボッシュの絵は、イエスを取り囲んで嘲弄する群衆の姿を、まるで悪魔のように非常に醜悪に描いています。

また、聖書には、傍らで涙を流して見守る婦人らに、イエスが「私の為ではなく、あなた方の子孫の為に泣きなさい」と優しく語りかけたエピソードも記されています。

恐らく、凄まじい光景だったと思いますよ。どんな画家や映画監督も描ききれないような、善と悪とが混沌とした人間世界がその場に凝縮されていたような気がします。

恐ろしいのは、イエスの身体から流れ出た血や磔刑という残酷な所業ではなく、束になって一人の人間を嘲り、辱める群衆の姿なんですよ。

真実が何処にあり、自分たちの心が何に駆り立てられているかも分からない、そのくせ権威ある者に媚び、束になって人を攻撃し、落ちた偶像に糞尿を浴びせることも厭わない。

そして、我が身を守るためなら、恩義ある者さえ平気で裏切り、昨日までの忠誠をきれいさっぱり忘れてみせる──人間というのは、二千年の昔から何一つ変わっていない──むしろ理屈が増えた分、心の眼で見抜く力をどんどん無くしているような気さえします。

そんな酷い道程を、十字架を担いで歩いて行ったイエスの心を思うと、自分の身に起こる不幸なんて、本当にちゃちなものに感じるんですよ。

皆さんならどうします?ちゃんと最後まで『悲しみの道』を歩き切る?途中で十字架を放り出して、脱走する?それとも十字架の上で、この世界と人間を呪って死にますか?

私がイエスを立派に思うのは、「逃げなかった」からなんですよ。
本当に神の子だったかどうかはともかく、神の子としての生涯を我が運命として受け入れ、全うしたでしょう。
言うなれば、自分の信念に最後まで忠実だった。そしてあらゆる恐怖や暴力に打ち勝ち、それを自らの手で実現した。その強さに惹かれるんですよね。

私は本物のクリスチャンではないので、イエスの事は、「神の子」としてではなく、一人の人間、一人の思想家、一つの言霊として見ているのですが、それでも彼の神性は、この強さにあると思わずにいないのですよ。
なぜなら、愛は意志の力であり、行動は挑戦だから。

どんなに優れた思想があっても、実践しなければただの屁理屈だし、言うだけなら誰だって出来るもの。もし、彼が普通の文筆家で、著作だけが残っていたら、作家として名声は得ても、神の子と崇められることはなかったでしょうしね。

人は皆、重い十字架を背負って「悲しみの道」を行くイエス・キリスト。
イエスが歩き切った道を、他の人も同じように歩き切れないわけがない。
私はいつも辛いことや苦しいことがあると、十字架を担いで歩いたイエスの心を思うんですよ。
自分の信念に支えられて、悲しみの道を歩き切ったイエスの強さをね。

イエスの起こした数々の奇跡の真偽は、この際、問題でない。
2000年の時を超え、今も人の心を惹きつけずにいない、その言葉や生き様にこそイエスの神性があるような気がしてなりません。

それは言い換えれば、人間の本質は不変であり、人間は2000年の昔から同じものに苦しみ、同じものを求めて生きているということ──。

著しい文明の進歩は、ニーチェいわく『神は死んだ、俺たちが神を殺したのだ』けれど、人はやはり神なるものを求めずにいない。

そして、『神なるもの』とは『永久不変の真理』であり、人は混沌たる世界で迷い、傷つきながらも、その真理を探し求めているのだと私は思います。

聖書の一節にもあります。

『真理は、あなた方を自由にする』

日本の文化人が、今更のように、「道徳教育の復活」だの「宗教教育の必要性」だの言い出したのも、結局、そういうことなんですよ。

戦後の混乱の中で、自分たちがそれを殺しておきながら、子供達が荒れだしたといって、また復活させようとしているでしょ。

だったら、欧米流を鵜呑みにせず、殺すまえにじっくり考えるべきだったんですよ。人間にとって、教育にとって、本当に必要なものは何かということをね。

自分たちの思慮の無さを棚に上げて、今更、制度がどうとか、家庭教育がどう、とか言っても、説得力無いですよ。

その前に、一言、謝るべきじゃないでしょうか。

「子供達よ、我々は愚かだった」と。そうして大人の方から過ちを認め、行いを改めれば、子供達も自分を省みるぐらいの事はすると思いますよ。

今年のクリスマス、シャンパンを開け、ケーキを食らう前に、ほんの少しでいいから、2000年前、神の心を現す為に生まれたイエス・キリストのことを思って下さい。

そして、十字架に打ちつけられる痛みや、それでもなお人を愛して逝ったイエスの心をね。あなた方の受けた苦痛や屈辱など物の比ではない。

それを思えば、この世に堪えられない事などないはずです。

最後に、私の好きな聖書の言葉をいくつか──。

聖書の言葉

■ ゲッセマネの祈り ■

(最後の晩餐を済ませた後)イエスは弟子を連れて、オリーブ山[ゲッセマネの園]に向かうと、ひざまずいて祈った。

『父よ、この杯(苦難の象徴)を私から取り除いて下さい。しかし、私の望みからではなく、あなたの御心のままに』

すると天使が天から現れて、イエスを力づけた。イエスは苦しみ悶え、ますます熱心に祈った。汗が血のしたたるように地面に落ちた。

■ 原罪 ■

蛇が女に向かって言った。

『神様が、君たちは園のどんな樹からも食べてはいけないと言われたというが本当かね』

そこで女は蛇に答えた。

『園の木の実は食べてもよろしいのです。ただ園の中央にある木の実について、神様は、それをお前達は食べてはいけない、それに触れてもいけない、お前達が死に至らないためだ、とおっしゃいました』

すると蛇が女に言うには、

『君たちが死ぬことは絶対にないよ。神様は、君たちがそれを食べると、君たちの眼が開け、神のようになり、善でも悪でも一切が分かるようになるのをご存知なだけのことさ』

■ 狭き門から入れ ■

『狭き門から入れ。滅びに至る道は大きくて広い。この道から入ってのたうち回るものが多い。真実の生命に至る門は狭く、その道は狭く、これを見つけることのできる者は少ない』

それでは、素敵なクリスマスを ☆

※こちらにより詳しく紹介しています。ぜひチェックして下さいね。

 映画『ベン・ハー』 ~聖書とキリスト教の物語~

初稿: 00/12/22

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