屁理屈と無神論 その理論は本心ですか? 『カラマーゾフの兄弟』随想(7)

カラマーゾフの兄弟, キリスト教, ドストエフスキー

世の中には『知恵の実』を食べ過ぎたような人が少なくない。知恵の実というのは、旧約聖書に登場する、『善悪の知識の木』になっている果実のことである。一般には『エデンのリンゴ』で知られる。

ヤハウェ神はその人(アダム)を取って、エデンの園におき、これを耕させ、これを守らせた。ヤハウェ神は人に命じて言われた。「君は園のどの樹からでも好きなように食べてよろしい。しかし善悪の知恵の樹からは食べてはならない。その樹から食べるときは、君は死なねばならないのだ」

もちろん、ここでいう『死ぬ』とは肉体的な死ではない。神のように善悪の知識を得る=自分の頭で考えるようになる=生きる指針を見失い、苦悩するようになる、という『魂の死』を意味する。

だが、アダムとエバは悪賢い蛇にそそのかされ、善悪の知恵の樹から実をとって食べてしまう。

蛇が女に向かって言った。
「神様が君たちは園のどんな樹からも食べてはいけないと言われたというが本当かね」
そこで女は蛇に答えた。
「園の樹の実は食べてもよろしいのです。ただ園の中央にある樹の実について神様は、それをお前たちは食べてはいけない。それに触れてもいけない。お前たちが死に至らないためだ、とおっしゃいました」
すると蛇が女に言うには、
「君たちが死ぬことは絶対にないよ。神様は君たちがそれを食べるときは、君たちの眼が開け、神のようになり、善でも悪でも一切が分かるようになるのを御存知なだけのことさ」
そこで女はその樹を見ると、成程それは食べるのによさそうで、見る眼を誘い、知恵を増すために如何にも好ましいので、とうとうその実を取って食べた。そして一緒にいた夫にも与えたので、彼も食べた。するとたちまち二人の眼が開かれて、自分たちが裸であることがわかり、イチジクの葉を綴り合わせて、前垂を作ったのである」

人は何故、善悪を知ってはならないのだろう? 誰が見ても素晴らしい成長ではないか。
だが、ここでいわれている『善悪』とは、神を基準とした善悪である。
「神のように賢くなれる」とは、即ち、「あなたも神の如く考え、善悪を判断することができる」という意味だ。
個々がそれでも慈愛や正義を重んじ、適切な善悪の判断が下せればいいが、めいめいが「俺は神のように賢い」と自惚れ、得手勝手な基準で善悪を判断するようになったら、世の中はどうなるだろう。
「世の中、ゼニや。稼ぐヤツが一番偉いんや!」と、儲け第一の考えをするようになれば?
「○○党が絶対正しい。逆らう人間はみな国家の敵だ!」と、極端な思想に走るようになれば?
それでも人は過たないと言い切れるだろうか。
ヤハウェがアダムとエバに『神のような知恵』を得ることを禁じたのは、人が善悪の規範を己に求めるようになれば、利己心や傲慢で増長するからだ。
そして、それが人間の苦悩の始まりである……というのが、キリスト教の原点である。

失楽園
『知恵の樹』 ルーカス・クラナッハ

さて。

カラマーゾフ三兄弟の中でも、きわめて理知的で、独特の世界観をもつ次兄イワン。秀でた頭脳を持ちながら、大学時代は貧困に苦しみ、父に棄てられた惨めな生い立ちと相成って、『不死がなければ、善行もないわけであり、したがってすべてが許される』という極端な思想を持つに至る。

そんなイワンに同調するのが、カラマーゾフ家の調理係スメルジャコフだ。

スメルジャコフの母親は、町でも有名な『神がかり行者』リザヴェータ・スメルジャーシチャだ。神がかり行者といっても、尊いわけではない。語り手いわく『(身長)140センチそこそこしかない、非常に小柄な娘だった。二十歳の娘らしい、健康そうな、幅の広い、血色のいい顔は、完全に白痴の顔だったし、眼差しは柔和でこそあったが、少しも動かず、不快だった。いつも地べたやぬかるみで眠るため、いつ見ても髪は土や泥にまみれ、木の葉や、木片や、かんなくずなどがこびりついていた』。

ある夜、したたかに酔っ払った上流人士の数人が、茂みの中で眠りこけるリザヴェータを見かける。彼らは破廉恥な冗談をとばし、一人の若い貴族が「だれでもいいが、こんなけだものを女として扱うことができるだろうか、なんなら今すぐにでも……」と猥雑なことをけしかける。誰も本気にしなかったが、フョードルだけが「一種特別な刺激があっていい」などと言いだし、どうやら本当に手を出してしまう。妊娠したリザヴェータは、なぜかカラマーゾフ家の庭に忍び込み、男の子産み落とす。リザヴェータは産後のショックで息を引き取るが、男の子はスメルジャノフと名付けられ、忠実な召使いの夫婦、グレゴーリィとマルファに育てられる。

ところが、このスメルジャノフも一癖あり、語り手曰く、『せいぜい二十四かそこらの、まだ若い男なのに、おそろしく人ぎらいで、寡黙だった。人見知りするとか、何か恥ずかしがっているというわけではなく、むしろ反対に、性格は傲慢で、あらゆる人間を軽蔑しているかのようだった。およそ感謝の念を知らずに育ち、いつも隅の方から世間をうかがう、人見知りのはげしい少年になった。少年時代には、猫を縛り首にして、そのあと葬式をするのが大好きだった』……(゚_゚)

スメルジャコフ
スメルジャコフ

ある日の晩餐にて。

召使いのグリゴーリィは、ルウキヤーノフの店に買い出しに行き、あるロシア兵士の噂を耳にする。

兵士はどこか遠い国境で、アジア人の捕虜となり、キリスト教を棄てて回教に改宗することを迫られたのに、信仰を裏切ることをいさぎよしとせず、皮を剥がれ、キリストを讃美し、たたえながら死んでいったという。

それを伝え聞いたフョードルは、「そういう兵士はすぐに聖者に祭りあげて、剥がれた皮はどこかの修道院に寄付すべきだ、そうすりゃ人がわんさと殺到して、賽銭も集まるしな」と不信心な事を口にする。

するとスメルジャコフは薄笑いを浮かべて、こう答える。

その立派な兵士の英雄的な行為が、たいそう偉大だとしましても、ですね。わたしの考えでは、かりにそんな不慮の災難にあって、キリストの御名と自分の洗礼とを否定したとしても、ほかならぬそのことによって苦行のために自分の命を救い、永年の間にそれらの善行で臆病をつぐなうためだとしたら、やはり何の罪もないだろうと思うんです」

*

「もしわたしがキリスト教の迫害者の捕虜になって、神の御名を呪うことや、神聖な洗礼を否定することを強要されたらとしたら、わたしは自分の分別でそれを決める完全な権利を持っているんですよ。なぜってこの場合どんな罪もないんですからね。<中略>
だって、わたしが迫害者たちに『いいえ、わたしはキリスト教徒じゃありません、自分の本当の神を呪っているんです』と言うやいなや、そのとたんにわたしは特に最高の神の裁きによって、ただちに呪われた破門者にされ、まるきり異教徒と同じように神聖な教会から放逐されてしまうんですからね。<中略>
わたしがただちに神さまに呪われたとたん、まさにその最高の瞬間に、わたしはもう異教徒と同じになって、洗礼も解かれ、何事にも責任がなくなってしまうんですよ」

一言で要約すれば、『棄教すれば、罪もなくなる』ということ。

キリスト教徒=罪を背負っている

私はもはやキリスト教徒ではない=罪もなくなる

いわば究極の屁理屈。

元々、人には罪も宗教もなく、自身がキリスト教の信仰を選んだ時点で罪も一緒についてくるだけの話であって、信仰を捨てれば罪もなくなる、という論理だ。

さらにスメルジャコフは続ける。

「どんな正義にもとづいて、あの世へ行ってから、信仰を棄てたことに対してキリスト教徒と同じように、責任を問われなけりゃいけないんですか、実際には信仰を棄てる前に、そう考えただけで、わたしは洗礼を剥奪されてしまっているというのに? わたしがすでにキリスト教徒でないとしたら、つまり、キリストを棄てることもできないわけです」

*

「自分で考えてごらんなさい。聖書にだって書いてあるでしょうに。せめていちばん小さな穀粒ほどの信仰を持っているなら、この山に向かって、海に入れと言えば、山はその命令一つで、少しもためらうことなく、海に入るだろうって。もしわたしが不信心者で、あなたがのべつわたしを叱りつけるほど信仰が篤いんだったら、ためしに自分であの山に向かって、海にとは言わぬまでも、うちの庭の裏を流れている、あの臭いドブ川になりと入るように命じてごらんなさいよ、そうすればそのとたんに、いくらあなたが叫んだところで、何一つ動こうとせず、何もかも今までどおりそっくりしつづけていることが、わかるでしょうから。あなただって本当の意味では信仰しておらずに、ほかの者をなんだかんだとりとばしているだけだってことじゃありませんか。あなただけじゃなく、現代ではだれ一人、それこそいちばん偉い人から、いちばんどん尻の百姓にいたるまで、文字どおりだれ一人、山を海に入らせることなぞできやしないんです。

*

この地上の住人がみんな不信心者ということになれば、はたしてその人たち全部を神さまが呪って、あれほど慈悲深いことで知られておいでなのに、だれ一人赦してくださらぬ、なんてことがあるものんでしょうか? だからわたしは、いったん疑ったとしても、後悔の涙を流せば、赦してもらえるだろうと期待してるんです」

スメルジャノフの屁理屈はさらに続く。
篤い信仰心があるなら、「山に向かって海に入れ」といえば、そうなるはずなのに、現実には山はピクリとも動かない。この世のどこを探しても、山を動かせる人間などないはずなのに、インチキではないか。
そして、地上がそうした不信心者で溢れかえったとしても、慈悲深い神なら、赦してくれるはず。命まで差し出すような罪悪感を抱く必要はまったくなし。
突き詰めれば、信仰など何の意味もなく、信じたい人が勝手にそう信じているだけ、神も罪もありはしないのだという、究極の無神論だ。

それに対して養父のグリゴーリィは次のように窘め、スメルジャノフはまたも屁理屈でやり返す。

「ここにいる俺たちみんなは、軽薄だから信心していないだけなんだ。そんな暇がないからだよ。第一、仕事がしんどいし、第二に、神さまが時間を少ししかくださらず、一日にわずか二十四時間しか割り振ってくださらなかったもんだから、悔い改めることはおろか、十分に眠る暇もありゃしない。お前だって迫害者の前で信仰を棄てるのは、信仰以外に何も考えることがないときだからの話で、本当はそういうときこそ信仰を示さにゃならんはずなんだぞ!」

「自分の信仰のために迫害を受けることをせず、いまわしいマホメット教にでも転向したとすれば、たしかに罪深いでしょうよ。でも、そういう場合なら、迫害を受けるまでにいたりもしないはずです。なぜって、わたしがその瞬間に山に向かって動け、この迫害者を押しつぶしてくれ、と言いさえすれば、山が動きだして、たちどころに迫害者を油虫みたいに押しつぶしてくれるでしょうし、わたしは何事もなかったように、神をたたえ崇めながら帰ってこられるはずですからね。

でも、もしわたしが、まさしくそうした瞬間にあらゆることを試みた末、もはや山に向かって、この迫害者どもを押しつぶしてくれと、わざわざ頼んでも、山が押しつぶしてくれなかったとしたら、どうしてその場合に疑いをいだかずにいられるでしょう。それも死というたいへんな恐怖を前にした恐ろしいときに、ですよ?

それでなくたってわたしは、天上の王国にはとうてい行きつけないことを承知しているのに(なにしろ、わたしの言葉で山は動かなかったんですからね、つまり、わたしの信仰なんぞ天国ではあまり信用してもらえないんだし、あの世でわたしを待っている褒美もたいしたものじゃなさそうですからね)いったい何のために、そのうえ、何の得にもならないのに、皮を剥がれなけりゃならないんですか?

とすれば、あの世にもこの世にも自分の利益や褒美が見当たらないために、せめて自分の皮くらい守ろうとしたからといって、なぜわたしが特に罪深いことになるんですか? だから、わたしは神さまのお慈悲を大いに当てにして、すっかり赦していただけるだろうという希望をいだいているんですよ……」

つまり、神の為に忍び、神の教えに身を捧げたところで、奇跡など起こりはしないし、我が身が救われるわけでもない。
なんでそんな実体のない神の為に、我慢したり、犠牲になったり、しなければならないのか、、、、という冷めた疑問だ。
その通りといえば、その通りだが、『山を動かす』というのは、あくまで喩えであって、実際の行為として言っているわけではない。また教徒もそれを承知で信仰しているわけだから、これはやはり屁理屈といえる。

そんなスメルジャコフの同志に見えるのが、同じ無神論者のイワンだ。だが、イワンのスメルジャコフに対する評価は冷たい。

「僕を尊敬しようって気を起こしたんですよ。あれはただの召使いの、下種野郎です。もっとも、時期がくれば、最前線の肉弾になるでしょうがね」

フョードルもまた、スメルジャコフの底の浅い屁理屈にうんざりしながら言う。

「もし神があるなら、神が存在するなら、もちろん俺は罪があるし、責任もとるけど、もし神がまったく存在しないんだとしたら、お前のとこの神父たちなんぞ、もっとひどい目に会わせてやらなけりゃ。なぜって、やつらは進歩をはばんでいるんだからな。<中略>
ロシアじゅうのああいう神秘主義を一挙に全部ひっとらえて、ばか者どもをすっかり正気づかせるために、閉鎖しちまいたいくらいだ」

次いで、フョードルは、イワンとアリョーシャに訊ねる。

フョードル 「とにかく答えてくれ。神はあるのか、ないのか? ただ、まじめにだぞ! 俺は今まじめにやりたいんだ」
イワン 「ありませんよ、神はありません」
フョードル 「アリョーシカ、神はあるか?」
アリョーシャ 「神はあります」
フョードル 「イワン、不死はあるのか、何かせめてほんの少しでもいいんだが?」
イワン 「不死もありません」
フョードル 「全然か?」
イワン 「全然」

フョードル 「アリョーシカ、不死はあるのか?」
アリョーシャ 「あります」
フョードル 「神も不死もか?」
アリョーシャ 「神も不死もです。神のうちに不死もまた存するのです」

フョードル 「どうも、イワンのほうが正しそうだな。まったく考えただけでも、やりきれなくなるよ、どれだけ多くの信仰を人間が捧げ、どれだけ多くの力がむなしくこんな空想に費やしてきたことだろう、しかもそれが何千年もの間だからな! いったいだれが人間をこれほど愚弄しているんだろう? イワン、最後にぎりぎりの返事をきかせてくれ、神はあるのか、ないのか? これが最後だ」
イワン 「いくら最後でも、やはりありませんよ」
フョードル 「じゃ、だれが人間を愚弄しているんだい、イワン?」
イワン 「悪魔でしょう、きっと」
フョードル 「じゃ、悪魔はあるんだな?」
イワン 「いませんよ、悪魔もいません。<中略> もし神を考えださなかったとしたら、文明も全然なかったでしょうね」

イワンの無神論はさらに徹底したものだ。悪魔さえも否定する。ただ目の前に『現実』が存在するだけ、神の奇跡もなければ、罰や報いもない。全ては人間が考えだした一つの概念に過ぎない――というのがイワンの考えだ。

それもまた一つの真実かもしれないが、人間というのは、どこかで処理しきれない問題にぶち当たるものだし、理屈だけで自分に納得させられるものでもない。
「世の中、そんなもの」と開き直るのことも可能だろうが、果たして、開き直った先に、どんな幸福や発展があるというのだろう。
絶望のどん底でさえ、何ものにも救いを求めず、冷めた気持ちで現実を受け入れられるものだろうか。

思うに、フョードルというのは淫蕩であるけれど人間的だ。人間として見つめ、人間として欲望する。庶民の苦しみとは裏腹に、神父がよい暮らしをしておれば、素直におかしいと思い、この世に神も救いもあるものかと憤ったりもする。

逆に、スメルジャノフやイワンは、自分の世界に閉じこもって、まるで人間というものを見ていない。人が何を求め、何を悩んでいるか、自分から興味をもって人に尋ねることもなければ、それ故に、傷ついたり、苦しむこともない(アリョーシャのように)。ただ自分の理屈の中で、人間とは、世界とは、を思い巡らせているので、一見、理に適ったことを口にするが、その言葉は心に響かない。他人の苦悩を遠くから観察し、冷ややかに見下ろすだけである。

それは自分自身に対しても同様だろう。

なぜなら、自身と正面から向き合い、心底を覗き見れば、どうしたって不満や欠落が目に入る。その矛盾はどう解消するのだろう。それが癒やしえない痛みであっても、万事、理屈で割り切り、自身に納得させることができるものだろうか。

もし、それが可能なら、スメルジャノフも、イワンも、苦悩など一切感じぬはずだし、その心中は常に穏やかで満たされているはずである。なぜなら、彼らは、自身の感情すら超越して、救いも葛藤も克服する術を持っているからだ。――彼らの理論が正しいとするならば。
だが、現実はそうではない。スメルジャノフもイワンも心の底では自分を軽蔑しているし、世の中に満足もしていない。それも「無神の境地」といえばそうかもしれないが、苦悩も葛藤も超越できるなら、なぜ彼らは自身を蔑み、世界を愛することもできないのだろうか。それは突き詰めれば、結局、何一つ、心の問題が解決してない証ではないか。

現代でも、理屈を並べるのが好きな人は多いし、自分も相手も理屈で説き伏せ、本音や問題を覆い隠すのが癖になっているケースも多いと思う。

それでも、どこかで破綻するのは、それが『真実』ではないからだろう。

本当はケーキが食べたいのに、「野菜が一番」と自分にも周りにも言い続け、野菜ばかり口にしていたら、いずれ欲求不満になるだろう。何かおかしいと気づいても、それを認めたくない人は、やはり「野菜が一番」と言い続け、しまいにはケーキを食べる人を非難するようになる。ケーキがいかに害悪で、野菜が健康にいいか、くどくど理屈を並べ、自分自身も周りも疲弊させるのだ。
本当にケーキには興味が無くて、野菜でいいやと思っている人なら、「ケーキは絶対に害悪! 野菜だけを食べるべき!」という極論には走らない。黙って野菜を食べ、ケーキの好きな人を否定することもないだろう。
自分が一番食べたいものを口にできないから、ケーキを目の敵にする。それが本音と思う。

スメルジャノフもイワンも生い立ちのどこかで現実の不条理に失望したのだろう。救いを求めるよりは、救いそのものを否定する。それが唯一、苦悩から逃れる方法だったともいえる。
にもかかわらず、イワンの場合、心の底ではアリョーシャを求めているのが、なんとも興味深い。

その他の名台詞

宗教史について教え聞かせるグリゴーリィに対し、十二歳になったスメルジャノフがせせら笑いながら言ったこと。

神さまが世界を創ったのは最初の日で、太陽や月や星は四日目なんでしょ。だったら、最初の日にはどこから光がさしたんですかね?

おるおる、こういうヤツ。

クラスに一人か二人は必ず居る。

先生や学級委員の言うことに屁理屈で返しては、議論の進展を妨げるタイプ。

そして、生真面目なグリゴーリィは、ついカッとなって、「ここからだ!」とスメルジャノフの頬を激しく殴りつける。それから、スメルジャノフに一生の持病となる癲癇の発作が起きるようになる。

ちなみに、スメルジャノフの台詞は、旧約聖書の冒頭の冷やかし。

『始めに神が天地を創造された。地は混沌としていた。暗黒が原始の海の表面にあり、神の霊風が大水の表面に吹きまくっていたが、神が「光あれよ」と言われると、光が出来た。神は光を見てよしとされた。神は光と暗黒との混合を分け、神は光を昼と呼び、暗黒を夜と呼ばれた。こうして夕あり、また朝があった。以上が最初の一日である』

最初の光の出所は……確かにその通りだ。どこから光が差したんでしょうね(^_^;

旧約聖書の世界

『聖書』といえば、一般にはイエス・キリストの言葉を伝える福音書がイメージされますが、内容的には旧約聖書の方が大スペクタクルみたいで面白いです。

慣れない人がいきなり旧約聖書を読んでも、なかなかイメージしにくいと思うので、初心者には西洋美術や図解と合わせ読むのがおすすめ。

私もこの本を持っていますが、イラストは可愛く、説明は学術的という、絶妙のバランスです。中高生でも楽しく読める。

こういうビジュアルブックも入り口としておすすめ。

本格的に読むなら、岩波文庫がスタンダードかな。本記事の引用も岩波文庫。

『カラマーゾフの兄弟』に関する覚え書きです。 気になる箇所をその都度ピックアップしているので、整合性に欠けるかもしれませんが、備忘録として楽しんで頂けると有り難いです。概要はこちら。