2018/06/05 改訂版 「親を捨てよ 家を出よう」「大学には行った方がいいの?」「好きなことをして生きるは正解か」を追記

『カラマーゾフの兄弟』江川卓訳をお探しの方へ(原卓也訳との比較あり)

『カラマーゾフの兄弟』江川卓訳をお探しの方へ(原卓也訳との比較あり)
絶版になって久しい江川卓訳『世界文学全集(集英社)』のカラマーゾフの兄弟の抜粋と写真で紹介(冒頭・さくらんぼのジャム・大審問官)。読みやすい現代的な訳文です。原卓也訳との比較も掲載。2021年はドストエフスキーの生誕200年のアニバーサリーイヤーにつき文庫化の可能性もあり。興味のある方は復刊リクエストにご協力下さい。

『カラマーゾフの兄弟』江川卓訳をお探しの方へ

イワン&アリョーシャと楽しむ『カラマーゾフのロシアンティー(さくらんぼのジャム)』にも書いていますが、ロシア文学者・江川卓氏の著書【謎とき『カラマーゾフの兄弟』 (新潮選書)】を読んで、(小声)な、なんか、原卓也・訳より分かりやすくないかと感じた人は少なくないと思います。

その続きで、『カラマーゾフの兄弟』・江川卓訳をAmazonやその他のネット書店で探しても、ない、ない、どこにもない!!

この画面を見て、ま、まさか……廃刊……と悟り、望みの糸が絶たれたようにショックを受けたのは私だけではありますまい。

カラマーゾフの兄弟 江川卓

そんな時、本好きはどうするかといえば『買うの』。問答無用で購入するの。

確かに、値段は文庫本の何倍もしますが、セーター一枚分か飲み代一回分ですもん。美味しいものを食べたって、下水道に流れて行くだけだし、服や靴もすり切れて、いつかは捨てるでしょ。でも本は――名作を読んだ感動だけは、永遠に残りますからね(^^)

でも、最終的に決め手になったのは、こちらの紹介記事です。
担当の佐藤さんのだって「謎解き」で引用されていた氏の訳が、まじすばらしかったから!の一文に励まされました。私も同じように感じたからです。「嬰児(ややこ)」の話とか、ああ、なるほど納得。
ネットで江川卓訳の情報を出しているサイトも希少なので、本当に有り難かったです。
この場を借りて、改めて御礼致します。どうもありがとうございます <(_ _)>

有限会社シーズ スマイル書房 『世界文学全集〈19〉カラマーゾフの兄弟(全)』

カラマーゾフの兄弟 江川卓

そんなわけで、ポチった結果がこれ。
中古のランク『可』とは思えぬクオリティ。

カラマーゾフの兄弟 江川卓

『カラマーゾフの兄弟』江川卓訳をお探しの方へ(原卓也訳との比較あり)

上巻はカバー+帯付きでレアものです。

カラマーゾフの兄弟 江川卓

帯のイラストは、ドミートリィ兄。どことなくアイアンマン(ロバート・ダウニー・Jr)=に似てますね。

カラマーゾフの兄弟 江川卓 表紙

表紙の装幀は無地。

カラマーゾフの兄弟 江川卓

上巻の中扉。ドストエフスキーの肖像。写真の品質が非常にいいです。現行の刊行物でも、ここまで鮮明な写真を掲載しているものは珍しいのでは?

しかも編集には原卓也先生も名前を連ねておられるのですね。そりゃもう、ダブルで気合い入ってますよ!

カラマーゾフの兄弟 江川卓

下巻の中扉も有名なポートレートです。こちらもトーンが鮮明で、昭和期の刊行物とは思えないほどクオリティも良好です。

カラマーゾフの兄弟 江川卓

上巻には、『次回配本』のチラシとして、カラマーゾフの兄弟Ⅱ の広告が入っています。
第22回配本ということは、第1回から購入している読者がそろそろ息切れする頃ですね^^;

カラマーゾフの兄弟 江川卓

中扉。

カラマーゾフの兄弟 江川卓

目次。

カラマーゾフの兄弟 江川卓

ちなみに原卓也版は、第○編に併せて、「遠ざけられた長男」「修道院に到着」「アーメン、アーメン」など、小見出しが入っています。

第一編 ある家族の歴史
第二編 場違いな会合
第三編 好色な男たち
第四編 病的な興奮
第五篇 プロとコントラ
第六編 ロシアの修道僧
第七編 アリョーシャ
第八編 ミーチャ

大作の一ページ目。『作者より』

カラマーゾフの兄弟 江川卓

原卓也訳(黒文字) 江川卓訳(赤文字)

わが主人公、アレクセイ・フョードロウィチ・カラマーゾフの伝記を書き起すにあたって、わたしはいささかとまどいを覚えている。ほかでもない、アレクセイ・フョードロウィチをわが主人公と名づけはしたものの、人間として彼が決して偉大でないことは、わたし自身よく承知しているし、そのために、こんな種類の質問を避けられぬのが予見できるからである。『君は自作の主人公に選んだけれど、そのアレクセイ・フョードロウィチとやらは、どんな点がすぐれているんだね? どんなことをやってのけたんだい? だれに、どういうことで知られているのかね? 読者たるわたしが、なぜその男の生涯のさまざまな出来事の詮索に時間を費やさにゃならないんだい?』

わが主人公アレクセイ・フョードロヴィチ・カラマーゾフの一代記をはじめるにあたって、私はある種のこだわりを覚えている。ほかでもない、なるほど私はアレクセイ・フョードロヴィチをわが主人公と呼んではいるが、実をいうと、およそ彼が大人物などといえた柄ではないのは当の私がよく承知していることで、となれば、当然、次のような種類の質問を避けるわけにいくあみと覚悟するからである。いったいそのアレクセイ・フョードロヴィチにどんな見どころがあって、あなたは彼を主人公に選ばれたのか? そもそも彼は何をした男なのか? どういう人に、どんなことで知られているのか? 一読者たる自分が、彼の生涯の諸事件の究明などに時間をつぶさなければならないのはどういうわけか?

第五の質問はいちばん決定的だ。なぜなら、これに対しては『たぶん、小説を読めばおのずとわかるはずです』としか、答えようがないからである。だが、もし、読み終わってもわかってもらえず、わがアレクセイ・フョードロウィチのすぐれた点に同意してもらえないとしたら? わたしがこんなことを言うのも、悲しいことにそれが予想できるからだ。わたしにとって彼はすぐれた人物であるが、はたして読者にうまくそれを証明できるかどうか、まったく自信がない。要するに、彼はおそらく活動家ではあっても、いっこうにはっきりせぬ、つかみどころのない活動家である、という点が問題なのだ。もっとも、現代のような時代に、人々に明快さを求めるほうがおかしいのかもしれぬ。

この最後の質問はわけても致命的である。というのもそれに対しては、『小説を読まれれば、たぶん、ご自分でおわかりだろう』と答えるしか手がないからである。だが、もし万一、小説を終わりまで読んでもやはりわかってもらえず、わがアレクセイ・フョードロヴィチの注目すべきゆえんを納得していただけないなどということになったら? いや、こんなことを言うのも、悲しいかな、そうなることがいまからもう見えすいているからである。私にとってこそ確かに注目すべき人物に相違ないのだが、そこのところをうまく読者に証明できるものかどうか、私にはまったく自信がない。問題は、おそらくこの男もいわゆる活動家の部類に属する人間なのだろうが、それがなんともあいまいな、明確さを欠いた活動家だという点にある。もっとも、現代のような時代に、人間に対して明確さを求めるのが、そもそもおかしいのかもしれない。

勘のいい読者なら、もうおわかりですね。

ここではっきりアリョーシャが聖職者ではなく『活動家』と明言されていること。

さて、皆さんの印象はいかがです。

私は、正直に、江川訳の方が分かりやすいです^^;

これは翻訳文学うんぬんではなく、塩ラーメンが好きか、味噌ラーメンが好きか、というレベルの話です。

こちらは『謎とき カラマーゾフ』でもお馴染みの、さくらんぼのジャムの場面

カラマーゾフの兄弟 江川卓

原卓也訳(黒文字) 江川卓訳(赤文字)

「桜んぼのジャムはどうだ? ここにはあるぜ。おぼえてるかい、まだ小さいころポレノフの家にいた時分に、お前は桜んぼのジャムが大好きだったじゃないか?」
「兄さんはそんなことをおぼえてるんですか? じゃ、ジャムも下さい、今でも大好物なんです」
イワンはボーイをよんで、魚スープと紅茶とジャムを注文した。
「何でもおぼえてるさ、アリョーシャ、お前が十一になるまではおぼえているよ、あのときこっちは数えで十五だった。十五と十一というのは、たいへんな違いで、その年ごろの兄弟は決して兄弟になれないもんだよ。お前を好きだったかどうか、それさえわからんね。俺はモスクワへ行っちまって、最初の何年かはお前のことなんぞ全然思いだしさえしなかったもの。そのあと、今度はお前がモスクワへ来てからも、たしかどこかで一度会っただけだったな。それに、今度だってこの町で暮らしてもう足かけ四ヶ月になるけれど、今までお前とは口もきかなかったし、俺は明日発つんだが、今ここに坐って、なんとかお前に会って別れを告げたいものだと思っていたところなんだ、そしたらお前がわきを通りかかるじゃないか」


「桜んぼのジャムはどうだい? この店には置いてあるぜ。覚えてるかな。おまえ、小さい時分、ボレーノフのとこにいたころ、桜んぼのジャムが大好きだったじゃないか」
「よく覚えてますね。じゃ、桜んぼのジャムももらいます、いまでも好きですよ」
イワンはボーイを呼んで、魚汁(ウハー)とお茶とジャムを注文した。
「ぼくはなんでも覚えてるよ、アリョーシャ、おまえが十一の年まではね、ぼくは十五だった。十五と十一、この年の差の兄弟というのは、どうしても友だちになれないものなんだな。ぼくは、おまえが好きだったかどうかも覚えてないくらいさ。モスクワへ出てから何年かは、おまえのことなんか思い出しもしなかった。それから、おまえがモスクワに出て来てからも、確か、一度だけどこかで会ったきりだった。それでいま、ここへ来てからだって、もう四ヶ月目になるけれど、まだ落ちついて話したこともない。ぼくはあす発つんだけど、いまもここに坐って、なんとかおなごりにおまえに会いたいなあ、と思っていたんだ、するとそこへお前が通りかかるじゃないか」

前半のクライマックス、大審問官。

原卓也訳(黒文字) 江川卓訳(赤文字)

自分で判断してみるがいい。お前と、あのときお前に問いを発した悪魔と、いったいどちらが正しかったか? 第一の問いを思い出すのだ。文字どおりでこそないが、意味はこうだった。

正しかったのはどちらか、自分で答を出すがよい。おまえか、それともあのときおまえに問いを発した者か? 第一の問いを思い出してみるがよい。言葉はちがうかもしれないが、確かにそれはこういう意味であった。

≪お前は世の中に出て行こうと望んで、自由の約束とやらを土産に、手ぶらで行こうとしている。ところが人間たちはもともと単純で、生まれつき無作法なため、その約束の意味を理解することもできず、もっぱら恐れ、こわがっている始末だ。なぜなら、人間と人間社会にとって、自由ほど堪えがたいものは、いまだかつて何一つなかったからなのだ。この裸の焼け野原の石ことが見えるか? この石ころをパンに変えてみるがいい、そうすれば人類は感謝にみちた従順な羊の群れのように、お前のあとについて走りだすことだろう。もっともお前が手を引っ込めて、彼らにパンを与えるのはやめはせぬかと、永久に震えおののきながらではあるがね≫

≪おまえは世の中へ出て行こうとしている。しかも自由とやらの約束を持ったきりで、空手で行こうとしている。だが生まれつき愚かでふしだらな人間どもは、その自由の約束の意味もわからず、かえってそれを恐れ、おびえきっている、――なぜなら人間と人間の社会にとって自由ほど耐えがたいものもかつてあったためしがないからだ! ところで、草ひとつないこの炎熱の荒野にころがっているこれらの石が見えるな? ひとつこれらの石をパンに変えてみるがよい、そうすれば人間どもは恩義に感じて、従順な羊の群れのようにおまえの後を追い慕ってくるだろう。もっとも、いつお前が手をひっこめて、自分たちにパンをよこすのをやめはせぬかと、永久に恐れおののいていることになるだろうがな≫

ところがお前は人間から自由を奪うことを望まず、この提案をしりぞけた。服従がパンで買われたものなら、何の自由があろうか、と判断したからだ。

ところがおまえは、人間から自由を奪うことも望まぬあまり、この申し出をしりぞけてしまった。もし服従がパンで買われたものであるならば、どんな自由がありえよう、というのがおまえの考えだったのだ。

お前は人はパンのみにて生きるにあらず、と反駁した。だが、お前にはわかっているのか。ほかならぬこの地上のパンのために、地上の霊がお前に反乱を起こし、お前とたたかって、勝利をおさめる、そして人間どもはみな、≪この獣に似たものこそ、われらに天の火を与えてくれたのだ!≫と絶叫しながら、地上の霊のあとについて行くのだ。

おまえは、人の生きるはパンのみにあらず、と反駁した。しかし、よいかな、ほかでもないこの地上のパンの名においてこそ地上の悪魔はおまえに反旗をひるがえし、おまえと戦って、おまえを打ち負かすのだぞ。そしてすべての人間が、≪この獣に似たものこそ、天上の火を盗んでわれらに与えてくれたのだ!≫

お前にはわかっているのか。何世紀も過ぎると、人類はおのれの英知と科学との口をかりて、≪犯罪はないし、したがって罪もない。あるのは飢えた者だけだ≫と公言するようになるだろう。≪食を与えよ、しかるのち善行を求めよ!≫

お前は知っておるのかな、これから何世紀かが経つと、人類は自分たちの英知と科学との口を借りて、犯罪はない、したがって罪もない、あるのはただ飢えた者たちだけだ、と公言するようになる。≪まず食を与えよ、しかるのち善行を求めよ!≫

要所、要所が微妙に違いますよね。「地上の霊」と訳すか、「地上の悪魔」とするかで、印象も大きく異なりますし、「お前とたたかって、勝利をおさめる」と「おまえと戦って、おまえを打ち負かすのだぞ」も、ずいぶんニュアンスが違います。

私は一部を通して読んでみて、江川訳の方が分かりやすかったのですが、皆さんはいかがですか?

それは原先生が悪いという訳ではなく、本当に、本当に、塩ラーメンがいいか、味噌ラーメンが好きか、という違いです。

ロシア文学の専門家から見れば、江川訳のココがおかしい、とか、原先生の方が原作に忠実、とか、穿った見方になるのでしょうが、我々、凡人には「すっと頭に入るか、否か」の方が大きいですからね。言葉の響きとか、リズムとか。

そういう面では、江川訳の方が、より現代的で、馴染みやすいと思うんですよ。原先生の訳は、歌舞伎みたいに、ちょっと構えた感じになりますのでね。

↓ 大審問官の続き
カラマーゾフの兄弟 江川卓

『カラマーゾフの兄弟』一巻の巻末には、江川卓先生の野球解説、いやいや、作品解説が掲載されています。これは『謎ときカラマーゾフ』にも掲載されていないので、この世界名作文学集の為に書き下ろされた文章だと思います。

カラマーゾフの兄弟 江川卓

カラマーゾフの兄弟 江川卓

ほら、どんどん読みたくなってきたでしょ。

もうね、古本市場にしかないの ( *´艸`)

運がよければ、図書館で借りられるかもよ。

こちらは、ラストの感動的なアリョーシャのメッセージ。

カラマーゾフの兄弟 江川卓

原卓也訳(黒文字) 江川卓訳(赤文字)

だけどやはり僕の言葉をおぼえていてくれれば、そのうちいつか同意してくれるはずです。いいですか、これからの人生にとって、何かすばらしい思い出、それも特に子供のころ、親の家にいるころに作られたすばらしい思い出以上に、尊く、力強く、健康で、ためになるものは何一つないのです。

でも、それでもぼくの言葉をしっかりと覚えこんで、将来いつかその言葉に同意してください。いいですか、これからの人生にとっては、何かの美しい思い出、なかでも子供のころ、両親の家で過ごしているころに胸に刻まれた思い出こそが、何よりも尊い、力強い、健康な、有益なものになるのです、それ以上のものはありません。

君たちは教育に関していろいろ話してもらうでしょうが、少年時代から大切に保たれた、何かそういう美しい神聖な思い出こそ、おそらく最良の教育にほかならないのです。そういう思い出をたくさん集めて人生を作りあげるなら、その人はその後一生、救われるでしょう。

きみたちは教育についていろいろ聞かされるでしょう。けれど、子供のころから持ちつづけられる、何かすばらしく美しい、神聖な思い出、それこそが、おそらく、何よりもすばらしい教育なのです。もしそのような思い出をたくさん身につけて人生に踏み出せるなら、その人は一生を通じて救われるでしょう。

そして、たった一つしかすばらしい思い出が心に残らなかったとしても、それがいつの日か僕たちの救いに役立ちうるのです。

そして、そういう美しい思い出がぼくたちの心にはたった一つしか残らなくなるとしても、それでもいつかはそれがぼくたちの救いに役立つのです。

これも「そのうちいつか同意してくれるはずです」と「将来いつかその言葉に同意してください」では全くニュアンスが異なりますよね。

私はロシア語の原文は読めないので、どちらが翻訳として正しいかは分かりません。

でも、私のアリョーシャのイメージは、「してくれるはずです」と言い切るより、「同意してください」と呼びかける方なので、やはり江川訳の方が馴染むんですね。これはもう読む側の好みです。

巻末には、非常に詳細な後記・仲介が掲載されています。

カラマーゾフの兄弟 江川卓 後記・注解

カラマーゾフの兄弟 江川卓 後記・訳注

こちらは二巻に付属する登場人物のしおり。

カラマーゾフの兄弟 江川卓 登場人物紹介

『次回配本』は、「若きヴェルテルの悩み」と「イタリア物語」その他、ですよ。工藤幸雄、原卓也、お歴々が名前を連ねています。
説明文の「インテリゲンチア」というカタカナに痺れますねね!

カラマーゾフの兄弟 江川卓 次回配本

こんな感じで、江川っちの訳本が読みたい方は、古本市場で数千円を出して購入するか、図書館で借りるかあるいは、復刊ドットコムに投票するかです。なんと、まだ2票だ(自票を含む(T^T)

興味のある方は、ぜひぜひ投票をお願いします<(_ _)>

シーズ社の佐藤さん曰く、2021年はドストエフスキーの生誕200年のアニバーサリーイヤーなので、私も集英社の復刊・文庫化に期待しております。

『カラマーゾフの兄弟(江川卓)』 投票ページ

江川卓訳による読み直し

江川訳による読み直しプロジェクトはこちらです。メモが大量にあって、スキップしている箇所もありますが、注釈なども素晴らしいので、興味のある方はぜひ。

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