理想は生まれ出するも奇形ばかり カラマーゾフの兄弟』随想(8)

カラマーゾフの兄弟, キリスト教, ドストエフスキー

ドストエフスキーの面白いところは、キリスト教的人道主義に生きるキャラクターも、イワンやスメルジャノフのようにニヒルな無神論者も、両方、自身の中に兼ね備えているところだろう。

本質は、キリスト教的人道主義だが、一方で、過酷な現実に打ちのめされ、時に無力、時に懐疑に陥る自身がいる。そのせめぎ合いが、アリョーシャVSイワン、ラスコーリニコフVSポルフィーリィ(罪と罰)といった、相対するキャラクターとなって現れ、議論を戦わせる。彼らの論争はドストエフスキー自身の葛藤であり、激しく対立する信仰と懐疑の結末を見届けるのが作品の醍醐味といってもいいだろう。

それでも通して読んでいると、ドストエフスキーの一番の主張は、ゾシマ長老の教えにあると感じる。

イワンの無神論も尤もな所はあるが、どこか論拠が脆く、全人類の苦悩を解決するには、あまりに理路整然として、甘える部分がないからだ。

人間には、「心で作りだすもの」と「理屈で作りだすもの」の二種類がある。どちらも真理で、どちらも同じくらい大切だ。

しかし、人間は、「理屈で割り切れないもの」の方をより多く抱えている。何でも理屈で解決できるなら、人間の苦悩など、とおの昔に消えて無くなっているだろう。「乗り越えねばならない」「許さねばならない」、等々、頭でそのように考えても、心はその通りにならないから煩悶が生じるわけで、言い換えれば、そのあたりが「理屈で作りだすもの」の限界なのだ。

『カラマーゾフの兄弟』でも、イワンやスメルジャノフのような人間は決して幸せにならない。

幸福な結末を用意しようにも、こと悲劇においては、どうしても理屈で乗り越えられぬことがあるからだ。

そして、物語の前半で、『この世の良心』であるゾシマ長老は逝去する。それはカラマーゾフ一家にとって救いの喪失を意味する。

死の間際、長老がその良心をアリョーシャに託す場面が興味深い。

第四編 『病的な興奮』 フェボラント神父より

アリョーシャが心の師と仰ぐゾシマ長老は、死の床に就きながらも、最後の力をふりしぼって修道僧らに説教をする。

「互いに愛し合うことです、みなさん」

「神の民を愛しなされ。わたしらは、ここに入ってこの壁の中にこもっているために、世間の人たちより清いわけはなく、むしろ反対に、ここに入った人間はだれでも、ここに入ったというそのことによってすでに、自分が世間のすべての人より、この世の何よりも劣っていると、認識したことになるのです……。<中略>

自分が世間のだれより劣っているばかりか、生きとし生けるものすべてに対して、さらには人類の罪、世界の罪、個人の罪に対して、自分に責任があると認識したとき、そのときはじめてわたしたちの隠遁の目的が達せられるのです。

とにかく、われわれの一人ひとりがこの地上の生きとし生けるものすべてに対して疑いもなく罪を負うていることを、それも世界全体の一般的な罪というだけではなく、各人一人ひとりが地上のあらゆる人たち、すべての人に対して罪を負うていることを、わきまえねばなりません。この自覚こそ、修道僧の修行の、そしてまた地上のあらゆる人の栄誉にほかならないのです。なぜなら、修道僧とは何も特別な人間ではなく、地上のすべての人が当然そうなるべき姿にすぎんのですからの。

『この世の何よりも劣っている』というのはどういう意味だろう。修道僧というのは、信仰を志した時点で、世間の人たちより尊いはずではないか?

いやいや、俗世こそ、真の魂の修行場なのだ。

一歩、教会の外に出れば、そこは欲や怒りや欺瞞が渦巻く、魑魅魍魎の世界である。その中で道を究めてこそ真の修道者、俗世から離れ、教会にこもっているあなた方は、決して自慢できないのですよ……という意味。

『人類の罪、世界の罪、個人の罪に対して、自分に責任がある』というのは、一見、自身を卑下するようだが、要は『謙虚さ』と思う。なぜ人類の罪に対してまで自身が責任を取らなければならないのか、それは俗世の苦悩や悲劇を自身に重ね見ることにより、いっそう慈愛に近づくからだろう。たとえ俗世と距離を置いても、自身を特別などと自惚れてはならない。俗世の過ちは、即ち、自身の過ちであり、それを乗り越えることによって、人は聖なるものを修道僧の中に見出すのだ。

「くりかえして言いますが、おごりたかぶらぬことです。小人に対しておごりたかぶらず、大なる者の対してもおごりたかぶらぬことです。あなた方をしりぞける者、辱める者、そしる者、中傷する者を憎んではいけません。無神論者、悪を解く者、唯物論者など、かれらのうちの善き者だけではなく、悪しき者さえ憎んではいけない。とりわけ今のような時代には、彼らのうちにも善い人はたくさんいるのですからね。

その人たちのことは、こんなふうに祈ってやるのです。主よ、だれにも祈りをあげてもらえぬ人々をお救いください、主に祈りを捧げようと思わぬ人々をもお救いください、とな。そして、さらにこう付け加えるといい。主よ、わたしはおごれる心からこう祈るのではございません。何となれば、わたし自身、だれよりも汚れた人間だからです」

『だれにも祈りをあげてもらえぬ人々』というのは、言い換えれば、『だれにも愛されない人』だ。

人は、誰かを愛しく思えば、その人の無事や幸福を祈らずにいられないもの。『誰にも祈りをあげてもらえぬ』というのは、身近に、そのように大事に思ってくれる人が皆無ということだ。たとえば、淫蕩父フョードル・カラマーゾフのように。(息子と再会してからは、アリョーシャが『祈る人』となるが)

誰にも愛されず、幸福を願ってくれる人もない。人にとって、これほどの孤独がまたとあるだろうか。

そうした、地上で最も哀れな人の為に愛を注ぐ。それこそが真の修行であり、神の道と説く。驕り高ぶりからそうするのではなく、自身もまた怒りや恨みに揺れる、心の弱い人間だからである。

カラマーゾフの兄弟 ロシア 僧侶

そんな長老も、いよいよ最期の時を迎え、アリョーシャに彼を待つ家族や知人の元に帰るよう促す(=修道院を出て、俗世と交わる)。

複雑な思いで立ち去ろうとするアリョーシャに、バイーシイ神父がはなむけの言葉を送る。

「常に肝に銘じておくのだよ。俗世の学問は一つの大きな力に結集し、それも特に今世紀(=19世紀)に入ってから、神の授けてくださった聖なる書物に約束されていることを、すべて検討しつくしてしまったため、俗世の学者たちの冷酷な分析の結果、かつて神聖とされていたものは今やまるきり何一つ残っていないのだ。

しかし、彼らは部分部分を検討して、全体を見おとしているので、その盲目ぶりたるや呆れるほどだよ。全体は以前と同じように目の前にびくともせずに立ちはだかっているというのに、地獄の門もそれを征服できんのだからのう。

はたしてこの全体が十九世紀にわたって生きつづけてこなかっただろうか。今も個々の心の動きの中に、大衆の動きの中に生きつづけているのではないかね? すべてを破壊しつくした、ほかならぬ無神論者たちの心の動きの中にも、それは以前と同じように、びくともせずに生きつづけているのだよ! なぜなら、キリスト教を否定し、キリスト教に対して反乱を起こしている人たちも、その本質においては、当のキリストと同じ外貌をし、同じような人間にとどまっておるのだからの。

いまだに彼らの叡知も、心の情熱も、その昔キリストの示された姿より、さらに人間とその尊厳にふさわしいような立派な姿を創出することができないのだからな。かりにその試みがあったにせよ、できあがるのは奇形ばかりなのだ

『神の授けてくださった聖なる書物に約束されていることを、すべて検討しつくしてしまったため』というのは、科学技術の発達のことだろう
昔は、天体の動きも、潮の満ち引きも、四季の移り変わりも、全て「神の御業」と崇められてきた。
だが、地動説に始まり、化学、物理学、生物学、天文学、様々な学問が発達し、不思議とされた事象も科学的に証明されるようになった。
これにより、「神が天地を創造した」「処女マリアが子をみごもった」「死んだラザロが復活した」等々、聖書に記された奇蹟も「物語」と化し、神を畏れ、う敬う感情も遠ざかるばかりである。
神聖とされていたものが今は何一つ残っていない所以である。

だが、バイーシィ神父は断言する。
彼らは部分部分を検討して、全体を見おとしているので、その盲目ぶりたるや呆れるほどだよ』。

たとえば、天文学をやる人は星の動きだけを見つめ、医学をやる人は人間の身体だけを見つめる。哲学は哲学、数学は数学と、その分野だけに止まり、外に広がっていくことがない。森羅万象は一つの輪で繋がっているはずなのに、全体を俯瞰する人は少ない……ということだろう。

『全体は以前と同じように目の前にびくともせずに立ちはだかっているというのに』というのは、科学技術が発達し、様々な現象が解明されても、人間の苦悩や世界の悲劇は相変わらず存在し続けるということだ。

ゆえに、一部の者がキリスト教を否定し、反乱を起こしても、その人間像が大きく変化することはない。
仮に、キリスト以上の立派なものを創出したとて、そこに現れるのは奇形ばかり、つまり、理想に遠く及ばない「なんちゃってキリスト」だ。『我こそは現代の神』を自称しても、インチキだったり、傲慢だったり、とてもキリスト以上とは言えない。

だから、キリスト教が絶対的に正しい――という意味ではなく、人間は何を信じ、どう解釈しようと(たとえ無神論であっても)、その本質を克服し、神のごとく完璧になるのは難しい――ということだろう。

修道院を後にするアリョーシャに、バイーシイ神父が強く言って聞かせたのも、俗世には「なんちゃってキリスト」があちこちに存在し、信仰心が揺らぐような事を見聞きするからだ。たとえば、イワンやスメルジャノフのような屁理屈。傲然と開き直る放蕩父フョードル。修道院には決して存在しない俗物が神を否定し、善をあざ笑う。それでもなお信仰を貫き、人々を助けること。それがアリョーシャの使命であると。

それにしても、何故、人間は『キリストの示された姿』を超えることができないのだろう。二千年以上も前に語られた福音、科学全盛の時代においても、いまだ怒りや憎しみを克服することができず、昔と変わらぬ苦悩を引き摺っている訳は?

それはやはり人間の欲望が動物の本能に根ざしたものだからだろう。腹が空けば食べたいと思い、どうせ食べるなら、もっと美味い物が欲しいと願う。
老い、孤独、支配、競争、どれも突き詰めれば、生存本能に直結する。善良な魂や磨き抜かれた知性が動物性の先にあるなら、これからも人間は己の葛藤と戦わねばならないし、科学技術がどれほど発達しても、本能まで完全にコントロールすることはできない。今後、どれほど優れた技術や理論が構築されようと、人間にとって最高の善性が『愛と赦し』であることは変わりなく、それはやはり『キリストの示された姿』に他ならない。たとえ、それが別の具象に置き換わろうと、違う呼び名に変わろうと、人はやはりそれを求めずにいないのである。

『カラマーゾフの兄弟』に関する覚え書きです。 気になる箇所をその都度ピックアップしているので、整合性に欠けるかもしれませんが、備忘録として楽しんで頂けると有り難いです。概要はこちら。