いかにして我は無神論者となりしか 『カラマーゾフの兄弟』随想(9)

いかにして我は無神論者となりしか 『カラマーゾフの兄弟』随想(9)

無神論と言うと、漫画に登場する「そんな事は神が許さぬぞ」「ならば神とも戦うまで!」みたいな尖ったキャラを想像するが、ここで語られる無神論は現実に対する失望感に近い。災害や戦争の惨状を目にして、「神も仏もあるものか」と嘆く気持ちだ。

なぜこんな目に会うのか。誰が救ってくれるのか。

ここに描かれているのは、ごくごく当たり前の疑念や憤りだ。

くどくど、くどくど、長いけど、新聞の三面記事――バラバラ殺人や幼児虐待、テロや人種差別などの話題などを眺めながら――「世の中、まったく狂ってる。政治家も文化人も信じられない」と嘆く大学生の顔を思い浮かべながら読むと、入りやすい。

※上記の台詞は『北斗の拳』(原哲夫)より。

いかにして我は無神論者となりしか

屁理屈と無神論 その理論は本心ですか? 『カラマーゾフの兄弟』随想(7)の続き。

第五編 プロとコントラ 四 反逆

イワンもスメルジャノフもあれこれ屁理屈を並べては『神の不在』を説くが――とりわけスメルジャノフ――「本当はケーキが食べたいのに、それが手に入らず、野菜が一番と極論に走り、ついにはケーキを食べる人を非難するようになる」と解釈するなら、彼らの無力感や絶望感はどこから来るのだろうか。

それを如実に物語るのが、居酒屋でのイワンとアリョーシャの会話だ。

明日にはモスクワに発つイワンを訪ねて、アリョーシャは居酒屋でイワンと落ち合う。長兄ドミートリィがなおもグルーシェンカと金銭に執着し「父親を臼の中で粉々にしてやる」などと恐ろしいことを口走っているからだ。

最初は警戒していたイワンも、今ではアリョーシャに愛着を感じ、心を開いて話すようになる。アリョーシャもまた「ドミートリィ兄さんは、イワンは墓石だなんて言うけど、僕ならイワンは謎だって言うな。兄さんは今でも僕にとって謎ですよ、でもある程度はもう理解できましたけどね」と情愛を示す。

冷たい無神論者に見えるイワンだが、心底には人間らしい温かな血が流れているのだ。

「かりに俺が人生を信じないで、愛する女性にも幻滅し、世の中の秩序に幻滅し、それどころか、すべては無秩序な呪わしい、おそらくは悪魔的な混沌(カオス)なのだと確信して、たとえ人間的な幻滅のあらゆる恐ろしさに打ちのめされたとしても、それでもやはり生きていきたいし、いったんこの大杯に口をつけた以上、すっかり飲み干すまでは口を離すものか! <中略>

三十までは、どんな幻滅にも、人生に対するどんな嫌悪にも、俺の若さが打ち克つだろうよ。

この人生のへの渇望ってやつはな。だれが何と言おうと、そいすはお前の内部にも必ず巣食っているにちがいないんだ。

アリョーシャ。生きていたいよ。だから俺は論理に反してでも生きているのさ。たとえこの世の秩序を信じないにせよ、俺にとっちゃ、≪春先に萌え出る粘っこい若葉≫が貴重なんだ。青い空が貴重なんだよ。そうなんだ、ときにはどこがいいのかわからず好きになってしまう、そんな相手が大切なんだよ。

しょせん行き着く先は墓場だってことはわかっているけど、しかし何よりいちばん貴重な墓場だからな、 そこには貴重な人たちが眠っているし、墓石の一つ一つが、過ぎ去った熱烈な人生だの、自分の偉業や、自己の真理や、自分の逃走や、自己の学問などへの情熱的な信念だのを伝えてくれるから、俺は、今からわかっているけど、地面に倒れ伏して、その墓石に接吻し、涙を流すことだろう。そのくせ一方では、それらすべてがもはやずっと以前から墓になってしまっていて、それ以上の何者でもないってことを、心から確信しているくせにさ。
俺が泣くのは絶望からじゃなく、自分の流した涙によって幸福になるからにすぎないんだよ。自分の感動に酔うわけだ。春先の粘っこい若葉や、青い空を、俺は愛してるんだよ、そうなんだ」

本当は情熱家であり、理想家なのですね、イワンは。人生に人一倍、美しいものを求めている。感じる力も、愛する力も、人の倍。
だから、余計で現実の粗が見えるし、失望もする。イワンの食べたいケーキは、決してこの地上には無いのだ。

それから二人はドミートリィやカチェリーナについて語り合い、次いで、『汝はいかなる信仰をしているか、それともまったく信仰しておらぬか?』と、俺に問いただすためだろうというイワンの問いかけから信仰に関する議論が交わされる。

「(一部の連中が)飲屋でのわずかな時間をとらえて、いったい何を論じ合うと思う? ほかでもない、神はあるかとか、不死は存するかといった、世界的な問題なのさ。神を信じない連中にしたって、社会主義だの、アナーキズムだの、新しい構成による全人類の改造だのを論ずるんだから、しょせんは同じことで、相も変わらぬ同じ問題を論じているわけだ、ただ反対側から論じているだけの話でね。つまり、数知れぬほどの多くの、独創的なロシアの小僧っ子たちのやっていることと言や、現代のわが国では、もっぱら永遠の問題を論ずることだけなんだよ。そうじゃないかね?」

これは『現代のわが国』も同様。「相も変わらぬ同じ問題」というのは、突き詰めれば、「幸福とは何か、生き甲斐とは何か、この世界をより良くするには何が必要か」という人と社会の指針だ。キリスト教徒にとっては神の教えであり、そうでない人にとっては、自己啓発本であったり、経済論であったり、恋愛指南だったり、『聖書』に代わる何かであるというだけ、種類が異なるだけで、主題そのものに大きな変わりはない。それは時を遡っても同じこと。ギリシャ哲学の時代から、幸福とは、人生とは、同じ事を繰り返し論じている。そして、それは、科学技術が著しく進んだ未来でも多分変わらない。孤独も裏切りも悲痛も争いも。『永遠の問題』というのは、人類の足下に横たわる、普遍の命題であり、解決策なのだ。

さらにイワンは「俺だって神を認めているかもしれないんだぜ」と意外なことを口にする。

「十八世紀に一人の罪深い老人がいたんだが、その老人が、もし神が存在しないのなら、考えだすべきである、と言ったんだ。そして本当に人間は神を考えだした。<中略>

俺の頭脳はユークリッド的であり、地上的なんだ。だから、この世界以外のことはとうてい解決できないのさ。お前にも忠告しておくけど、この問題は決して考えないほうがいいよ、アリョーシャ、何より特に神の問題、つまり神はあるか、ないかという問題はね。これはすべて、三次元についてしか概念を持たぬように創られた頭脳には、まるきり似つかわしくない問題なんだよ。というわけで、俺は神を認める」

まずこのパートで繰り返しイワンが口にする『ユークリッド的』『ユークリッド幾何学』について、きちんと理解しておこう。
こちらの京都産業大学の福井 和彦 教授の説明が非常に分かりやすい。
たとえば、東京-ロサンゼルス間に真っ直ぐ引かれた線は、純然たる直線に見えるが、現実には地球は丸いのだから、この線も微妙に曲がっているのが正解。そのように『何事も杓子定規には計れない』――この柔軟、かつ相対的な視点が、『こうあるべき』という観念に突破口を開き、今までとは違った人生観や世界観をもたらす訳だが、その点、イワンは「直線は直線」という見方しかできない。本文に、「二本の平行線も、ひょっとすると、どこか無限の世界で交わるかもしれない」などという空想ができるほどお目出度い感性の持ち主ではない、ということだ。1+1は1だし、真っ直ぐ引かれた線は直線に違いないのである。
ユークリッド幾何学

だから、イワンは言う。「神はあるか、ないかという問題はね。これはすべて、三次元についてしか概念を持たぬように創られた頭脳には、まるきり似つかわしくない問題なんだよ」。いわば、クールなリアリストであり、正直な人でもある。目の前の直線について、「でも、現実には地球は丸いのだから、その線も実質は曲がっているんだよ」などという、突き抜けたような物の考えには至らないわけだ。

それ故に、イワンは断言する。

というわけで、俺は神を認める。それも喜んで認めるばかりか、それ以上に、われわれにはまったく計り知れぬ神の叡知も、神の目的も認めるし、人生の秩序や意味も信じる。われわれがみんなその中で一つに融和するとかいう、永遠の調和も信じる。<中略>

ところが、どうだい、結局のところ、俺はこの神の世界を認めないんだ。それが存在することは知っているものの、まったく許せないんだ。俺が認めないのは神じゃないんだよ、そこのとこを理解してくれ。俺は神の創った世界、神の世界なるものを認めないのだし、認めることに同意できないのだ。

ここは『神』と言葉通りに受け止めるより、『神的なもの』と解釈した方が分かりやすいかもしれない。つまり、イワンは、人間には絶対的指針となるものが必要だと理解しているし、キリスト教の神も存在意義は認めている。むしろ、人間の本性や社会の問題点を知悉すればこそ、その必要性を積極的に肯定している方ではないか。

さらにイワンは言う。「世界の終末には、何かこの上なく貴重なことが生じ、現れるにちがいない。それは、人間界に起こったすべてのことを赦しうるばかりか、正当化さえなしうるくらい、貴重なことであるはずだ。しかし、たとえそれらすべてが訪れ、実現するとしても、やはり俺はそんなものを認めないし、認めたくもないね!

その理由を、イワンは子供の苦悩にフォーカスしてアリョーシャに語る。

たとえば、女性や子供を残虐な方法で痛めつけるトルコ人。
七つになる自分の娘を細枝で鞭打つインテリの紳士と奥さん。
五つの女の子に暴力をふるい、真冬の寒い日に、一晩中便所に閉じ込める母親と父親。
将軍の飼い犬にケガをさせたが為に、母親の目の前で犬の群れに噛み殺された小さな男の子。

大人はともかく、子供の悲劇はどうなるのか。

たとえ、神の奇蹟が本当で、天上のもの、地下のもの、すべてが一つの賞賛に溶け合い、母親が迫害者と抱きあって『主よ、あなたは正しい』と涙ながらに讃える日が来たとしても、痛めつけられた子供の涙までもが償われるのだろうか。

俺は人々がこれ以上苦しむのはまっぴらだよ。 母親が、犬どもに我が子を食い殺させた迫害者と抱擁し合うこなんてことが、まっぴらごめんなんだよ! いくら母親でも、その男を赦すなんて真似はできるもんか!と、イワンは叫ぶ。

この世界中に、赦すことのできるような、赦す権利を持っているような存在がはたしてあるだろうか? 俺は調和なんぞほしくない。人類への愛情から言っても、まっぴらだね。それより、報復できぬ苦しみをいだきつづけているほうがいい。たとえ俺が間違っているとしても、報復できぬ苦しみと癒やされぬ憤りとをいだきつづけているほうが、よっぽどましだよ。

つまり、人間社会には神が必要で、その教えがまったく正しいとしても、『赦し』や『奇蹟』で痛めつけられた子供が救われるわけではない。
仮にそれが真実としても、この世の終わりに神の栄光が訪れたぐらいで、子供たちの苦しみ=大人の罪が償われるのだろうか、という憤りだ。

意味が分からなければ、自分の身に置き換えてみよう。

不当な理由で、一晩中便所に閉じ込められ、犬の群に噛み殺されても、それでもあなたは自分を痛めつけた迫害者と抱き合って『主よ、あなたは正しい』と讃えることができるだろうか。憎い相手の過ちを赦すことができるだろうか。

イワンの憤りは人間愛に基づくものだ。

スメルジャノフのように、捻れた気持ちから無神論を振りかざすのではなく、「そんなの、おかしいじゃないか」という真心の疑念である。

イワンは、その思いをこんな言葉で表す。

第二に、俺がまだ大人について語ろうとしないのは、大人はいやらしくて愛に値しないという以外に、大人には神罰もあるからなんだ。彼らは知恵の実を食べてしまったために、善悪を知り、≪神のごとく≫になった。今でも食べつづけているよ。ところが子供たちは何も食べなかったから、今のところまだ何の罪もないのだ。

かりにこの地上で子供たちまでひどい苦しみを受けるとしたら、もちろんそれは自分の父親のせいなんだ。知恵の実を食べた父親の代わりに罰を受けているわけだよ。<中略>

まだ意味さえ理解できぬ小さな子供が、真っ暗な寒い便所の中で、悲しみに張り裂けそうな胸をちっぽけな拳でたたき、血をしぼるような涙を恨みもなしにおとなしく流しながら、≪神さま≫に守ってくださいと泣いて頼んでいるというのにさ。

いったい何のために、これほどの値を払ってまで、そんなくだらない善悪を知らにゃならないんだ。だいたい、認識の世界を全部ひっくるめたって、≪神さま≫に流したこの子供の涙ほどの値打ちなんぞありゃしないんだからな。俺は大人の苦しみに関しては言わんよ。大人は知恵の実を食べてしまったんだから、大人なんぞ知っちゃいない。みんな悪魔にでもさらわれりゃいいさ、しかし、この子供たちはどうなんだ!

たとえば、中東の紛争地で、五歳の子供が砲弾に手足を吹き飛ばされたとする。
「ママ、身体が痛いよ、どうして僕だけこんな目に会うの?」
あなたはその子に、「もうすぐ神さまのところに行くのよ、そこでは皆、痛みも苦しみも知らずに永遠に幸せに暮らせるのよ」「市民を虐殺するようなテロリストでも、神さまはお赦しになります。私たちは、そういう罪人とも肩を抱き合い、神さまは正しいと讃えるべきなのです」などと言えるだろうか。
たとえ大人は叡知によって赦しの境地に至ったとしても、子供にそんな事が理解できるだろうか。
突き詰めれば、『神』や『赦し』という概念も、大人の理知によって初めて理解できることだ。もっと意地の悪い見方をすれば、聖書も原罪も「大人が作りだした規範」とも言える。
イワンが憤りを覚えるのは、まさにその点だ。
「知恵の実を食べた父親の代わりに罰を受けているわけだよ」「大人は知恵の実を食べてしまったんだから」の『知恵の実』とは、大人の認識の世界であって、子供の理解が及ぶものではない。
子供にとっては、今、自分が感じる痛みが全てであって、赦しや神の栄光で、どうして癒やせるものか……というのが、イワンの正直な気持ちである。

「この世界じゅうに、赦すことのできるような、赦す権利を持っているような存在がはたしてあるだろうか? 俺は調和なんぞほしくない。人類への愛情から言っても、まっぴらだね。それより、報復できぬ苦しみをいだきつづけているほうがいい。たとえ俺が間違っているとしても、報復できぬ苦しみと、癒やされぬ憤りとをいだきつづけているほうが、よっぽどましだよ。<中略>
俺は神を認めないわけじゃないんだ、アリョーシャ、ただ謹んで切符をお返しするだけなんだよ」

つまり、不当に苦痛に対して、赦そう、赦さねば、という神の心境で居続けるより、怒りや憎しみをそのまま持ち続けた方がよっぽどマシというわけだ。
それは、神の教えを否定することでもある。切符をお返しする……というのは、たとえその為に天国に行けなくてもかまわない、という気持ちだろう。

それに対して、アリョーシャはどう答えるか。

「でも、そういう存在はあるんですよ。その人(訳注 キリストのこと)ならすべてを赦すことができます。すべてのことに対してありとあらゆるものを赦すことができるんです。なぜなら、その人自身、あらゆる人、あらゆるもののために、罪なき自己の血を捧げたんですからね。兄さんはその人のことを忘れたんだ、その人を土台にして建物は作られるんだし、『主よ、あなたは正しい。なぜなら、あなたの道は開けたからだ』と叫ぶのはその人に対してなんです

この議論の結末は、イワンが書いた壮大な叙事詩『大審問官』に続く。・・・・まだまだ続く・・・・(´。`) 

人を愛するか、世界を愛するか

愛とは、そうそう容易いものではない。まともに相手にすると疲れるし、理解し合うにも時間もかかるから。

「俺はね、どうすれば身近な者を愛することができるのか、どうしても理解できなかったんだよ。俺の考えだと、まさに身近な者こそ愛することは不可能なので、愛しうるのは遠い者だけだ。
いつか、どこかで≪情け深いヨアン≫という、さる聖人の話を読んだことがあるが、飢えて凍えきった一人の旅人がやってきて暖めてくれと頼んだとき、聖者はその旅人と一つ寝床に寝て抱きしめ、何やら恐ろしい病気のために膿ただれて悪臭を放つその口へ息を吹きかけはじめたというんだ。しかし、その聖者は発作的な偽善の感情にかられてそんなことをやったのだ。義務感に命じられた愛情から、みずから自己に課した宗教的懲罰から、そんなことをやったんだと俺は確信してるよ。
人を愛するためには、相手が姿を隠してくれなけりゃだめだ。相手が顔を見せたとたん、愛は消えてしまうのだよ

愛しうるのは遠い者だけ――人間、近づきすぎると、嫌なところも直視するからね。

ネットでもいるじゃない。

身近な人間にはまるで無関心、友達もない、家族にも冷淡なのに、「人生とはー、社会とはー」と演説だけは立派なタイプ。

イワンも、身近な人間とじっくり向かい合い、生々しい繋がりを持つよりは、人類全体の幸福について考えた方が気楽なタイプなのだろう。

「相手が顔を見せたとたん、愛は消えてしまう」は、「相手の嫌な所が目に入った途端、気持ちも冷める」と解釈すると分かりやすい。

それに対するアリョーシャの見解はこう。

「長老もやはり人間の顔はまだ愛の経験の少ない多くの人々にとって、しばしば愛の妨げになる、と言っておられたものです。でも、やはり人類には多くの愛が、それもキリストの愛にほとんど近いような愛がありますよ」

『人間の顔』というのは、ありのままの本性。嫌な所もあれば弱い所もある。人付き合いの経験が浅いと、相手のちょっとした仕草や言動に傷つき、「もう嫌だ」と逃げ出してしまうけれど、いろんな人間を知り、深く交流してきた人なら、「みな似たり寄ったり」と受け流すことができる。

だとしても、人の愛情というのは、キリストの愛に近いものがある……というのが、アリョーシャの見解だ。

「わかりすぎるほどですよ、兄さん、本心から、腹の底から愛したいなんて、実にすばらしい言葉じゃありませんか。兄さんがそれほど生きていたいと思うなんて、僕はとても嬉しいな」アリョーシャは叫んだ。「この世のだれもが何よりもまず人生を愛すべきだと、僕は思いますよ」
「人生の意味より、人生そのものを愛せ、というわけか?」
「絶対そうですよ。兄さんの言うとおり、論理より先に愛することです

これは、「若い最初の自分の力を愛しちまうんだよ」と、心の底では、地上の世界や人間を愛しているイワンに対して、アリョーシャが同意する言葉。

その後、「兄さんの仕事の半分はできあがって、自分のものになっているんです。だって、兄さんは生きることを愛しているんですもの。今度は後半のことを努力しなけりゃ。そうすれば兄さんは救われますよ

アリョーシャの言う『後半』とは、「兄さんの死者たちをよみがえらせること」。

つまり、愛の実践。

『兄さんの死者』を、いまだ救いを知らない人々と定義するならば、愛の実践によって、その人たちを幸せにすることが、イワンに残された『後半の使命』だ。
もう愛の何たるは知っているのだから、その愛を身近な人に注いで幸福にしなさいと、アリョーシャは促しているのではないだろうか。

総括

かの有名な叙情詩『大審問官』の前提となるパートなので、ここを読み違えると、なぜそうまでイワンが神の是非に拘るのか、分からなくなる。

イワンは決して背徳者ではないし、根っからの極悪人でもない。

むしろ情に厚く、純粋真っ直ぐな正義漢だ。

それゆえに、現実に失望しやすい、という弱点がある。

ところで、ドストエフスキーが考え抜いた事は何だろう。

それは「神無き時代の神なるもの」ではないか。

いろんな人物のエピソードで埋め尽くされるカラマーゾフだが、核になるのは、イワンとアリョーシャの会話と思うし、アリョーシャの信仰がイワンの無神論――というよりは、社会の不条理に対する義憤や疑念、失望、無力感に対して、どう答えるかが大きな見所と思う。

一言で表せば、ニヒリズムと人道主義の闘い……かな。

イワン アリョーシャ カラマーゾフの兄弟

Photo:http://fav.me/d6sc9iz

魚のスープって、ナニー(´・ω・)σ 

本作によく登場する魚のスープって、多分、こんなの↓ だし汁ではなく、塩、バター、ハーブ、サワーミルクなどで味付け。

魚スープ

イワンとアリョーシャが飯を食った店

ポーランドでは、郷土料理の出る居酒屋風レストランをKarczma(カルチマ)という。ロシアも多分、こんなかな、と。

karczma

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『カラマーゾフの兄弟』に関する覚え書きです。 気になる箇所をその都度ピックアップしているので、整合性に欠けるかもしれませんが、備忘録として楽しんで頂けると有り難いです。概要はこちら。

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