現代の精神的指導者『カラマーゾフの兄弟』随想(2)

2017年11月8日カラマーゾフの兄弟, キリスト教, ドストエフスキー

社会主義と宗教『カラマーゾフの兄弟』メモ (1)からの続き。

第一編 ある家族の歴史 五項 長老

神の道を志すアリョーシャの精神的指導者となる、ゾシマ長老。

その修道院が栄え、ロシア全土に有名になったのは、まさに長老のおかげであり、長老に会い、長老の話を聞くために、信者たちがロシア全土から、何千キロの道もいとわず、群れ集ってこの町にやってくるのだった。

それなら、長老とはいったい何者なのか?

長老とは、すなわち、あなた方の魂と意志を、自分の魂と意志の内に引き受けてくれる人にほかならない。いったん長老を選んだならば、あなた方は自己の意志を放棄し、完全な自己放棄とともに、自分の意志を長老の完全な服従下にさしだすのである。自己にこの運命を課した人間は、永い試練のあとで己れに打ち克ち、自己を制して、ついには一生の服従を通じて完全な自由、つまり自分自身からの自由を獲得し、一生かかっても自己の内に真の自分を見いだせなかった人々の運命をまぬがれることができるまでにいたるのだという希望をいだきながら、この試練を、この恐ろしい人生の学校を、すすんで受けるのである。

それって、洗脳ちゃいますの??

字面だけ追えば、「長老の完全な服従下」「一生の服従」という表現の前で違和感を覚えるだろう。

しかし、キリスト教において、人間のあらゆる罪、あらゆる苦悩が、『神の教えに背き、神のように賢くなろうとしてリンゴ(=エデンの園)を食べた』に端を発しているとすれば、一旦、自身の感情や意志を長老に預け、頭の中を空っぽにして、ただひたすらその教えに従う……というのは教徒的に正しい道なのだ。

その過程では、当然、激しい葛藤や迷いが生じる。

淫蕩の父フョードルのように、「女遊びがしたい」という欲求が強い場合、ゾシマ長老の教え(=女性は慈しむもの)は非常な苦痛で、全人生を否定されたような気分になるだろう。
それでも女と遊びたいという欲求を捨て、「慈しみ」に自分自身を合わせる。
その末に、女遊びの欲求に打ち克ち、慈愛の心を得たなら、それは魂と信仰の勝利である。

ここで述べられる「服従」とは、教祖が金を持って来いと命じれば、家でも娘でも差し出す盲信の類いとは異なる。

それはあくまで、キリスト教的な解脱の道である。

そして、数ある長老の中でも、ゾシマ長老の高徳は群を抜いている。

たとえば、この町の修道院の長老のところへは、庶民も、さらにきわめて高貴な人たちも、長老の前にひれ伏して自分の迷いや罪業や悩みを告白し、忠誠と訓戒とを仰ごうと、ひきもこらずに押しかけてくるのだった。

これは現代も変わらない。

キリスト教や仏教など、既存宗教の指導者の代わりに、人気ブロガーや、スピリチュアルカウンセラーや、オピニオンリーダーのような人物が講演会やオンラインサービスを開設し、そこに熱心なファンが押し寄せて、有り難い話を聞く構図と全く同じである。

ただ一点違うのは、ロシアの修道院の長老が『キリストの教え』に従うのに対して、人間のリーダーは個々の価値観に基づいて教えを説く、という点だ。もちろん、尊敬する人物や好きな書物など、より高次な教えに影響されて持論を展開するわけだが、何をもって『正しい』とするか、絶対的な根拠はない。経験や実績を通して持論の正しさを証明できても、それで本当に間違いないのか、人間が人間に対してどのように判断するのだろう。凶悪なカルト集団のように、誰もが正しいと信じる教祖が社会的には完全に間違っていることを、信者は、どこで、どのように見分けるのだろうか。

つまり、人間の知恵や意志の限界はここにある。

人間を『我』と言い表した方が解りやすいだろうか。

「自分で考え、自分で決める」

現代においては美徳とされるが、全てが自らに基づいて判断されるなら、究極、『邪魔者は殺めてもいい』『騙してでも儲けろ』という勝手もまかり通る。
それでも自分で考えることが最善なのか。人は何をもって善徳と悪徳を見分けるのだろう?

その点、キリスト教は解りやすい。従うべきは神の言葉、ただ一つである。
神は決して間違いは言わない。
神の言葉に従って生きれば、愛と善徳に満ちあふれた人生が開けていくはずである。

だが、待てよ。

神が正しいのは分かるが、そもそも『神』という概念はどこから始まったのか? 誰か見たのか。直接、神の声を聞いたのか。突き詰めれば、神も、聖書も、人間が作り出したものではないのか。

この葛藤が無神論であり、混迷の大本である。

そして、その葛藤を超える為の、明確な答えは未だ用意されていない。

それらしきものは地上にごまんと存在するが、絶対性や普遍性において、そこまで説得力を持たないのが現状だ。

それだけ現代人の生き方や価値観が多様化したといえばそうだし、それらしき教えも、突き詰めれば、神的な存在に基づく。

結局、離れては立ち返り、離れては立ち返り、を繰り返しているのが、人間の本性ではないだろうか。

そんな迷える人々にとって、心強いメンターであるゾシマ長老は…

長老はもう永年にわたって、心の秘密を告白しにやってきて彼から忠告や治療の言葉をきこうと渇望している人たちを、ことごとく近づけ、数知れぬほどの打ち明け話や嘆きや告白を自分の心に受け入れたため、しまいにはもうきわめて鋭敏な洞察力を身につけ、訪れてくる見ず知らずの人の顔をひと目見ただけで、どんな用事で来たのか、何を求めているのか、どんな悩みが良心を苦しめているのか、それまで見ぬくことができるほどになり、訪問者が一言も口をきかぬうちに相手の秘密を言いあててびっくりさせ、うろたえさせ、時には怯えに近い気持ちさえひき起させたという。

これは医療者もそうだし、街角の手相見もそう。
相手が何を言わんとしているか、「顔を見ただけで解る」気持ちは分かります。

いったい何ゆえに信者たちがこれほど長老を慕い、顔を拝んだだけで、なぜその前にひれ伏して感涙にむせぶのか、そんなことはアリョーシャにとって何ら疑問となるものではなかった。

そう、労働と悲しみと、そして何よりも、常日頃の公正と、自分自身の罪ばかりか全世界の罪によっても常に苦しめられているロシア民衆の穏やかな魂にとって、聖物なり聖者なりを見いだして、その前にひれ伏し、礼拝する以上の、慰めや欲求など存在しないことを、彼はよく知っていた。

『かりにわれわれに罪悪や、不正や、悪の誘惑があるにせよ、やはりこの地上のどこかに神聖な、最高の人がいることに変わりはない。われわれの代わりに、その人のところに真実が存在し、その人が代わりに真実を知っておられるのだ。してみれば、真実がこの地上で滅びることはないわけだし、つまりは神の約束なさったとおり、そのうちに真実がわれわれのところにもやってきて、全地上に君臨するようになるのだ』

現代は、長老の代わりに、ネットで「神的なコンテンツ」を探している人が多いのではないか。

ネコの動画や1分で読める幸せのメッセージに、救われました、癒やされました、etc。

教会に行く代わりに、心の慰めや励ましになるコンテンツを探しているだけで、根っこは19世紀末のロシア民衆と変わらない。
「神など信じない」という人でさえ、突き詰めれば、神的なものを探し求めているのである。

そんなゾシマ長老の高徳を間近に見ながらアリョーシャは考える。

『長老は聖人で、御心の中には万人にとっての更生の秘密と、最後にこの地上に真実を確立する力とが隠されているのだ。やがてみんなが聖人になって、互いに愛し合うようになり、金持ちも貧乏人も、偉い人も虐げられている人もなくなって、あらゆる人が神の子となり、本当のキリストの王国が訪れることだろう』
こんな夢をアリョーシャの心は描くのだった。

なんて純真なアリョーシャ……。
この作品が連載された11年後にマルクス主義のロシア社会民主労働党が結成され、1900年代初頭から革命運動が活発化したことを考えると、非常に興味深い。
その後、地上に現れたのは、キリスト王国ではなく、ソビエト連邦だったのだから。

この世は何によって治められるべきなのか。

神さえも人間が作り出した概念とするならば、我々はどこに指針を求めればいいのだろう?

『カラマーゾフの兄弟』に関する覚え書きです。 気になる箇所をその都度ピックアップしているので、整合性に欠けるかもしれませんが、備忘録として楽しんで頂けると有り難いです。概要はこちら。