偽善と不信 真の救いはどこにある? 『カラマーゾフの兄弟』随想 (6)

カラマーゾフの兄弟, ドストエフスキー, 海外の小説

カラマーゾフの兄弟〈上〉 (新潮文庫) 原卓也・訳

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第五節 『長老』 七項 出世主義者の神学生

より

さて、泥沼のカラマーゾフ一家。
父子と兄弟がこうも憎み合い、蔑み合う背景には二人の女の存在があった。

一人は、金持ちで、貴族の娘で、無類の美人であるカテリーナ・イワーノヴナ。

もう一人は、『度百姓の町長サムソーノフ風情の妾』で『売春婦』で『牝犬』とまで言われるグルーシェニカ。

二人の女を、三人の男が争うという、渡辺淳一の小説でもお目にかかれない複雑な男女関係ゆえに、それぞれの愛憎もいっそう激しい。

一家と二人の女の間に何が起きたのであろうか。

その経緯はアリョーシャと神学生ラキーチンの間で語られる。

「アリョーシャ、君はいつもどっちつかずの煮えきらぬ態度をとりはするけれど、常に本当のことしか言わない人間だ。 <中略> 今日、親父さんと兄貴のミーチャを見ているうちに、君は犯罪のことを考えたってわけだ?」

*

「どうして君はそんなに純情なんだろう? 君だってカラマーゾフなんだぜ! あんいしろ君の家庭じゃ情欲が炎症を起こすほどになってるんだからな! ところで、その三人の女好き(フョードル、ドミートリィ、イワンのこと)が鉢合わせしたのさ、君はことによると四人目かな」

「君はあの女性のことで誤解しているよ。ドミートリィはあの人を……軽蔑してるんだよ」

「グルーシェニカをかい? とんでもないよ、君、軽蔑なんかしてるものか。だって、いいなずけ(カテリーナ)を公然とあんな女に見変えた以上(気を移す)、軽蔑してなんかいないさ。ここには、今の君にはわからないことがあるんだよ。男ってやつわね、何かの美に、つまり女性の身体なり、あるいは女性の身体のごく一部分なりにでさえ、ぞっこん参ってしまったら(女好きならこのことはわかるんだが)、そのためには自分の子供でも手放すし、父や母でも、ロシアでも祖国でも売り渡しちまうもんなんだ。正直だった男が盗みを働き、温厚でありながら人殺しをし、忠実だった男が裏切ったりするのさ」

さあ、ここで神学生とは思えぬ発言が飛び出します! チェリー坊やのアリョーシャには目玉が飛び出るような過激さ!

「女性の身体のごく一部分なりに」というのは、『セックスがいい』ということでしょうな。実際、それで、痴話喧嘩→交際相手、絞殺、なんて、普通にありますから。

「要するに、君にはすでにお馴染みのテーマなんだな、これについて考えたことがあるわけだ、情欲ってことについてさ。 <中略> 僕はずっと前から君を観察してるんだがね。君自身もやっぱりカラマーゾフだよ、完全にカラマーゾフだ。要するに、血筋がものを言うってことだな。父親譲りの色好みで、母親譲りの神がかり行者ってわけか」

それぐらいにしたれや、ラキーチン……( ´Д`)y━─┛~

このパートのポイントは、アリョーシャが聖俗併せもった人間だという点。

極端に潔癖でもなければ、まるきりの鈍感でもない。普通の男性と同じ感性を有し、それゆえに、父や兄たちの葛藤を理解することができる。
アリョーシャが完全無欠であれば、同情よりも裁きに走るだろうし、愚鈍ゆえに善良なら、問題の存在にすら気づかないだろう。
聖俗あわせもち、父や兄たちの情念も理解できるアリョーシャだからこそ、救済の存在として立ち回ることができる。

その前のプロセスで、死を前にしたゾシマ長老が、『わたしが神さまに召されたら、すぐに修道院を出るのだ。すっかり出てしまうのだよ』とアリョーシャに促す所以だ。

「どうか、このままここにいさせてください」
アリョーシャは哀願するような声で言った。
「お前は向こうでいっそう必要な人間なのだ。向こうには和がないからの。<中略> お前のいるべき場所は、当分ここにはないのだ。俗世での大きな修業のために、わたしが祝福してあげよう。お前はこれからまだ、たくさん遍歴を重ねねばならぬ。結婚もせねばならぬだろう、当然。ふたたび戻ってくるまでに、あらゆることに堪えぬかねばなるまい。やることは数多く出てくるだろうしの。しかし、わたしはお前を信頼しておる。だからこそ、送り出すのだ。お前にはキリストがついておる。キリストをお守りするのだ、そうすればお前も守ってもらえるのだからの。お前は大きな悲しみを見ることだろうが、その悲しみの中で幸せになれるだろう。悲しみのうちに幸せを求めよ――これがお前への遺言だ。働きなさい。倦むことなく働くのだよ」

*

「兄さんたちのそばにいておあげ。それも一人だけのそばにではなく、どちらのそばにもな」

イエス・キリストが神の子ならば、なぜ地上に遣わされたのか。それは人々と同じ大地、同じ目線で、人生を共にし、苦楽を分かち合う中で魂を高め、教えを広めるために他ならない。
アリョーシャも修道院にこもっておれば、一家の悲劇を目の当たりにすることなく、美しいものだけ見つめて生きることも叶っただろう。
だが、ゾシマ長老は、アリョーシャに「共に生き、救いを見出す」ことを課す。
それはカラマーゾフ一家の悲劇を見越しての判断と同時に、アリョーシャの資質について思うところがあったからではないか。(良い意味で)
善良な人、みながみな、修道院にこもっては、俗世には心のねじけたような人ばかりが残ってしまう。
戒律を守り、祈りの中で一生を終えるのも有意義だが、世の中には、俗世に混じって、苦しむ人々に直接手を差し伸べた方がいい人もある。同じく修道院を離れ、スラムの貧しい人々のために献身したマザー・テレサのように。
アリョーシャも、それにふさわしい知恵や柔軟性を備えていたということだろう。

しかしながら、俗世を理解するのは、純真なアリョーシャにとって容易いことではない。
父と兄はもちろん、彼らが取り合う女性二人もエキセントリックだ。

前述の神学生ラキーチンいわく、

「あ、そうそうグルーシェニカに頼まれてたんだ。『あの人を』 つまり君のことだぜ 『あの人を連れてきてよ。あたし僧服を脱がせてみせるわ』だとさ」

汚れなきアリョーシャ様に、何ということを!! とんでもない女ですよ、これは。父フョードルと長兄ドミートリィが翻弄されるわけだ。

ラキーチンはさらにイワンについて、次のようにコメントする。

「君の兄貴のイワンは、本人は無神論者でありながら、何かわからぬ愚かしい打算で、今のところ冗談半分とはいえ、進学の論文を発表して、その行為の愚劣さを自分でも認めているんだ。そればかりか、長兄のミーチャから婚約者を奪おうとしているし、きっとこの目的もはたすだろうよ。おまけに、問うのミーチャの同意のもとにさ。というのも、ミーチャは、ただ婚約者(カテリーナ)から解放されて一刻も早くグルーシェニカのところへ駆けつけたい一心で、自分からいいなずけを弟に譲ろうとしているんだからね。 <中略> こうなると、君ら兄弟のことは、まるきりわけがわからないな。なにしろ自分の卑劣さを認めながら、みずから卑劣さにはまりこんでいくんだからね」

*

「ところが今度は、ミーチャの行く手をさえぎるのが、あの老いぼれの親父さんてわけだ。とにかく、突然グルーシェニカに首ったけになっちまって、彼女を眺めているだけで涎をたらす始末だからね。 
<中略> べた惚れなんてなまやさしいものじゃないよ。以前あの女は飲み屋か何かのいかがわしい仕事で、給料で働く身にすぎなかったんだけれど、今ごろになってふいに親父さんが気づいて、見直し、すっかり頭にきちまったあげく、世帯を持とうと言い寄り始めた。もちろん、誠意はないさ。そこで親子が一本道で鉢合わせたという仕組みだ。
グルーシェニカのほうはどっちにも色よい返事をせずに、今のところまだのらりくらりと二人を適当にあしらいながら、どっちが得かを観察している状態だよ。なぜって、そりゃ親父さんからはごっそり金を絞れるだろうが、その代わり結婚してくれそうもないし、おそらく最後にはがめつくなって、財布をぴったり閉ざしちまうだろうからね。
そうなると、ミーチャだってまんざらすてたものじゃない。金こそないが、結婚はできるからな」

相関図にすると、こんな感じ。       

フョードル親父(欲情)>> グルーシェニカ << ドミートリィ(浮気) - -  カテリーナ(婚約者)  ドミートリィ - ->カテリーナ(婚約者)→ イワンに押しつける  そして、この泥沼の人間模様は、再び修道院長の食卓で再現される。

八項 恥さらしな騒ぎ

僧庵での父子喧嘩の後、修道委員僧の食事会に出席することになったミウーソフ(三兄弟の伯父)と次兄イワンとカルガーノフ(遠縁の青年)。フョードルは僧庵での騒動を恥じて、食事会をキャンセルする。

食事会には、イォシフ神父、パイーシイ神父、地主のマクシーモフも同席する。

ところがだ。

帰路についたフョードルは途中で気が変わり、馬車を止める。自身を道化と侮蔑する気持ちから、『毒食らわば皿まで』と、腹いせの気持ちで修道院に引き返すのだ。

『今となっちゃ、どうせ名誉も挽回できないんだから、いっそ恥知らずと言われるくらい、やつらに唾をひっかけてやれ。お前らなんぞに遠慮するもんか、と言ってやろう、それだけの話さ!』

*

「みんな、俺が帰ったと思ってるらしいが、ほら、やってきたぜ!」
広間じゅうにひびく声で彼は叫んだ。

さあ、トラブルメーカーの闖入。ただちに不穏な空気が漂うが、修道院長はきわめて冷静に受け答えする。

「衷心からおねがいいたします」
修道院長が答えた。
「いっときの諍いを忘れて、主への祈りを捧げながら、この和やかな食事の間に、愛と親族の和とで結ばれよう……」

*

「失礼ですが」不意に修道院長が言った。「昔からこう言われております。『人々われにさまざまなことを言い、ついにはいまわしき言にすら及ぶ。われすべてを聞き、心に言う。そはイエス・キリストの医術にして我が虚栄の心を治癒せんがため遣わされるなり』と。ですから、わたしどもも賓客のあなたに謹んでお礼を申し上げます!」
こう言って院長はフョードルに深々とおじぎをした。

「これだ、これだからな! 偽善だ、古くさい台詞だ! 台詞も古けりゃ、しぐさも古くさいや! 古めかしい嘘に紋切り型の最敬礼ときた! そんなおじぎは、こちとら承知してまさあね! <中略>
神父さんたち、あんた方はなぜ精進をなさるんです? どうして、それに対するご褒美を天国に期待してるんです? そんあnご褒美にありつけるんなら、わたしだって精進しまさあね!
だめですよ、尊いお坊さん、
修道院なんぞにひっこもって据え膳をいただきながら、天国でのご褒美を期待していたりせずに、この人生で徳をつんで、社会に益をもたらすことですな。そのほうがずっとむずかしいんだから」
(テーブルに並んだワインや蜂蜜酒を見て)
こういうものをすべて、ここへもたらしてくれたのは、だれでしょうな?
それはね、ロシアの百姓でさ、勤労者がマメだらけの手で稼いだわずかばかりの金を、家族や国家の必要からもぎとって、ここへ納めたんですよ! あんた方はね、尊い神父さんたち、民衆を食いものにしてるんですぜ!
もうさくさんでさ、神父さん、今は自由主義の時代ですぜ、汽船と鉄道の時代なんだ。千ルーブルだって、百ルーブルだって、いやさ百カペイカだって、わたしからはとれやしませんからね!」

修道院長は悪意にみちたこの嘘に対して頭をさげ、ふたたびおごそかに言った。
「また、こうも言われております。『汝の身にふりかかる不本意な辱めを、喜びもて堪えしのび、心乱すことなく、汝を辱しむる者を決して憎むなかれ』わたしどもも、そのように振る舞いましょう」

「これだ、これだからな、偽善そのものだ! わけのわからない御託を並べやがって!」

口調だけ見れば、やっぱりフョードルは野卑な人物に感じるが、意外と庶民の生活や社会の現実を真っ直ぐに捉えているのが分かる。

例えば、だ。

インチキ宗教やナントカの会で、信者はなけなしの生活費から五万、十万とお布施しているのに、教祖は誰よりも美味しいものを食べ、誰よりも華やかに着飾り、一番上等な車に乗っていたりする。壇上から、愛とは、生き方とは、を説くだけで、現実生活においては辛い仕事など何一つしない。説教する暇があったら、要介護者の入浴を手伝ったり、被災地の給食を手伝ったり、そういう仕事の方がより人々の救いになるのではないか――という話だ。

普段飲み歩いて、庶民の生活を間近に見ているフョードルが「わけのわからない御託を並べやがって!」と怒鳴りつけるのも分かる気がする。

ある意味、庶民の痛みを知ればこそ、神が実際には『何もしない』ことに失望し、神に対して道化になることを選んだともいえる。信じるも、信じないも、全ては人の儚い願いであり、この世にも来世にも救いなどありはしないのだ、だったら、せいぜい好きな事をして暮らせばいい、みたいな。

ここで、もう一度、信仰とは何かを考えてみよう。

先の項で、ゾシマ長老はアリョーシャに言った。

かりに幸福に行きつけぬとしても、自分が正しい道に立っていることを常に肝に銘じて、それからはずれぬように努めることです。

だが、現実に失望しきったフョードルは、善性をつむのではなく、淫蕩に走った。

そういう意味で、彼は不信心と言えるだろう。

だが、この過酷な世で、どれほどの人が信仰心を保て得るだろうか。

だからこそ天国の門は遠い……と言えなくもないが。

この章の名言

ラキーチンは、黙っていても美人で金持ちのカテリーナが手に入るイワンの立場を羨む一方、無神論的な考え方を揶揄する。

「イワンの狙いはもっと高いところにあるんだよ。イワンはどんな大金にだって釣られやしないさ。イワンが求めているのは金や、平安じゃないもの。ひょっとしたら苦悩を求めているのかもしれないよ」

*

「しかも、その謎たるや愚にもつかぬもので、わざわざ解くほどのことはないやね。ちょいと頭を働かしゃ、わかるんだ。彼の論文なんざ、こっけいで愚劣なものさ。
さっきも『不死がなければ、善行もないわけであり、したがってすべてが許される』というばからしい理論をきかされたがね。
その本質たるや、『一面から言えば認めざるをえないし、他面から言っても認めぬわけにはいかない』ということじゃないか。
彼の理論なんざ、卑劣そのものだよ!
人類はね、たとえ不死を信じなくとも、善のために生きる力くらい、ひとりで自分の内部に見いだすさ! 自由、平等、同胞主義への愛の中に見いだすにちがいないんだ……」

ここでいう『不死』とはキリスト教における『復活』、最後の審判の日、善行を積んだ者は天国に迎えられ、永遠の平安を得る、という意味。
現世で報われなくても、善性は神に祝福されるという信仰があるから、キリスト教徒も苦難に耐え、善を貫くことができる。
しかし、その前提が崩れたらどうなるだろう。不死も、天国も、神さえもない、人間は死んだらそれでおしまい、善行など何の意味もない――となれば、人は理性も慎みも無くし、好き放題するのではないか。

だとしても、人間は、善のために生きる力くらい、自分の中に見いだす。

神が存在しようと、なかろうと、人間は悪より善を選ぶ――というのが、ラキーチンの主張。

これはキリスト教的人道主義者で知られるドストエフスキーの一つの見解だろう。

実際、昔ほど神仏への信心がなくなった現代でも、大半の人は真面目だし、礼節や規則を重んじる。

性善説といえば、その通り。

「院長さま、わたしはそりゃ道化だし、道化をよそおってもいますけれど、しかし名誉の騎士ですから、はっきり申しあげておきたいんです。<中略>
そもそもわが国の現状はどうですか? 我が国では倒れたものは倒れっぱなし、倒れたら最後、永久に倒れてなけりゃならないんでさ。なんとかこれを変えられないものでしょうか! わたしは立ち上がりたいんです。神父さん、わたしゃあなた方に腹を立ててるんですよ。もともと懺悔というのは偉大な聖秘礼で、それに対してはこのわたしだって敬虔な気持ちになるし、ひれ伏すつもりでいるというのに、ふと見ればいったい声を出して懺悔するなんてことが許されているんですか?」

フョードルが、どこかで聞きかじった「教会の長老らが懺悔の聖秘礼を悪用している」という噂を持ち出して、院長を詰る場面。
「そもそもわが国の現状はどうですか? 我が国では倒れたものは倒れっぱなし、倒れたら最後、永久に倒れてなけりゃならないんでさ。なんとかこれを変えられないものでしょうか!」というのは現代日本もそうです。

『カラマーゾフの兄弟』に関する覚え書きです。 気になる箇所をその都度ピックアップしているので、整合性に欠けるかもしれませんが、備忘録として楽しんで頂けると有り難いです。概要はこちら。