社会主義と宗教『カラマーゾフの兄弟』随想(1)

2017年11月9日カラマーゾフの兄弟, キリスト教, ドストエフスキー

第一編 ある家族の歴史

長編小説『カラマーゾフの兄弟』において、物語の核となるのが、人柄卑しい地主、フョードル・パーヴロウィチ・カラマーゾフである。
後に何ものかに殺され、息子らを悲劇に叩き込む。

語り手いわく、父のフョードルは『およそ俗物で女にだらしないばかりか、同時に常識はずれの、ただ常識はずれと言っても自分の財産上の問題を処理するうえでは大いにやり手で、それだけしか能がないといった感じのするタイプの人間だった』。

これだけで、酒臭い、喋り口調も下品な、ムンムンとしたオヤジ像が匂ってくる。

善行をなすわけでもなければ、社会問題に深い関心を寄せるわけでもない。ただ飲み、遊び、金勘定に明け暮れる。周囲に疎まれ、蔑まれても、およそ悔い改めるということがない、不信心で、淫蕩な田舎オヤジである。

そんなフョードルには三人の息子があった。

先妻の子、ドミートリィ。
後妻の子、イワンとアリョーシャ。

二人の妻はいずれも早世し、三人の子は他人の手で育てられた。

ねじけた生い立ちもあって、長男のドミートリィは、激しやすい、粘着質の男。

次男のイワンは、頭は切れるが、神経質な無神論者。

三男のアリョーシャだけが、奇跡的に善人で、信仰の道に進む。
淫蕩父フョードルをして「とにかく俺は、お前だけがこの俺を非難しなかった、この世でたった一人の人間だと感じているんだよ」と言わしめた人物。

この一言は、アレクセイがフョードルにとって「キリスト的な存在」であることを意味する。

自他とも認める道化で、好色で、およそ羞恥や改悛などとは全く無縁な人物ながら、一方で「俺はかねがね、俺みたいな人間のために、そのうちだれかが祈ってくれるだろうかと、そればかり考えておったもんだよ」というようなことを、修道僧を志す三男のアリョーシャに素直に打ち明けているのも興味深い。

アリョーシャと話した後、最後に涙を流す姿は、さながらレンブラントの『放蕩息子』の逆バージョン。

こんな卑しい人物にも「許されたい」「愛されたい」という感情が存在する点が、いかにも人間的で、信心の源泉という気がする。

『罪と罰』もそうだが、本作には「神の在・不在」をテーマにしたエピソードが繰り返し登場する。その中で、ドストエフスキーは存在するとも存在しないとも断言してないが、結局のところ、人は『それ』を求めずにいない……というのが彼の解釈ではなかろうか。

放蕩息子の帰還 レンブラント

さて。

放蕩の父親にイエス・キリストのように信頼されるアリョーシャだが、語り手に言わせれば、、、

わたしには、アリョーシャはだれにもまして現実主義者(リアリスト)だったような気がする。もちろん、修道僧に入ってから彼は全面的に奇蹟を信じてはいたが、わたしに言わせれば、奇蹟が現実主義者を困惑させることなど決してないのである。
現実主義者を信仰に導くのは、奇蹟ではない。
真の現実主義者は、もし信仰をもっていなければ、奇蹟をも信じない力と能力を自己の内に見いだすであろうし、かりに反駁しえぬ事実として奇蹟が目の前にあらわれたとしても、その事実を認めるぐらいなら、むしろ自己の感情を信じないだろう。

<中略>

現実主義者にあっては、信仰が奇蹟から生まれるのではなく、奇蹟が信仰から生まれるのである。現実主義者にあっては、信仰が奇蹟から生まれるのではなく、奇蹟が信仰から生まれるのである。現実主義者がいったん信じたなら、まさしく自己の現実主義によって必ず奇蹟をも認めるはずである。

宗教をスピリチュアル・ブームと見立てて、現代風に置き換えてみよう。

一個30万円のパワーストーンが在る。教祖が息を吹き込め、一日三度、拝むだけで幸福になれる、奇蹟の紫水晶だ。

もし、あなたが単純に奇蹟を信じるなら、パワーストーンだけで、このスピリチュアル・マスターは凄い!!と信仰の対象にするだろう。

だが、現実主義者は違う。

そのパワーストーンが実際にどのように人を幸福にするのか、目で見て、実感して初めて、信仰の対象となる。

「信じなさい、あなたは救われる」が前提でパワーストーンを購入するのではなく、パワーストーンの御利益が本物だから信じるのである。

そう考えると、アリョーシャは「最初に教会ありき」の人ではない。

聖書の言葉が、あるいは神父の説教が、本当に人を救う様を見て、信仰を始めたのだ。

つまり狂信的な人物ではなく、「自分が信じるものを信じ、見るべきものを見る」というタイプである。

それは後の物語を読み解くにあたって、非常に重要な設定だと思う。

アリョーシャが、”田舎の信心深いおばあさん”とか、”100万円の祈祷代も惜しまない熱狂的な信者”とか、常識離れした人間であれば、その後の言動も説得力を無くすだろう。

きわめて常識的で、生まれもっての善性から神の道を志した人物だからこそ、父や兄の救いとなり、人の世を冷静に見定めることもできるのだ。

そんなアリョーシャが神の道を志した動機とは…

彼がこの道に入ったのは、もっぱら、当時それだけが彼の心を打ち、闇を逃れて光に突きすすもうとあがく彼の魂の究極の理想を一挙にことごとく示してくれたからにほかならない。
さらに、彼がすでにある程度までわが国の現代青年であったことも、付け加えてみるがいい。
つまり、本性から誠実で、真理を求め、探求し、信ずる人間であり、いったん信ずるや、心の力のすべてで即刻それに参加することを求め、早急に偉業を要求し、その偉業のためにならすべてを、よし生命をも犠牲にしようという、やむにやまれぬ気持ちをいだいている青年なのである。

放蕩の父親に激情家の長男、何かに取り憑かれたような次男、罵り合い、つかみ合い、まともに愛らしいものも体験できぬとあれば、誰だって救いを求めて神の門を叩く。

『わが国の現代青年』というのは、もちろん、ドストエフスキーの生きた19世紀後半のこと。

『1917年のロシア革命以前』『産業革命の只中の、急激な工業化と庶民の不満』をキーワードに考えれば、青年の傾向は現代とさほど変わらない。

今でも、ネット上では、若い人々が盛んに主張したり、議論をふっかけたり、熱量は変わらない。
ただ一点異なるのは、真理を追求するより、持論の正しさを証明する方にウェイトが置かれ、皆で知恵を持ち寄って道を究める姿からは程遠いこと。そして、ネット上の発言で終わり、実際に行動に移す人は少ないということ。
本当に革命を起こしてしまったロシアの青年とは、かなり異なる。

もっとも、現代は『思想に命を懸ける』とか『愛する母国に身を捧げる』といったことは流行らない。
それより目に見えて大勢の支持を得る方がはるかに効果的だ。投票であったり、フォロワーであったり、稼いだ金額であったり。現代においては「どう行動するか」より「どう影響するか」の方が、はるかに改革に結びつきやすいに思う。

いずれにせよ、熱狂的、浪漫的、純粋まっすぐというのは、いつの時代も青年の典型であり、アリョーシャも瑞々しい理想に燃える一人である。
そして、彼は速やかに気づく。

真剣に思いめぐらして、不死と神は存在するという確信に愕然とするなり、彼はごく自然にすぐ自分に言った。
『僕は不死のために生きたい。中途半端な妥協は受け入れないぞ』

これとまったく同じことで、かりに彼が、不死や神は存在しないと結論をだしたとすれば、すぐに無神論者か社会主義者になったことだろう(なぜなら、社会主義とは、単に労働問題や、いわゆる第四階級(*1)の問題ではなく、主として無神論の問題でもあり、無心論の現代的具体化の問題、つまり、地上から天に達するためではなく、天を地上に引きおろすために、まさしく神なしに建てられるバベルの塔の問題でもあるからだ)。

無神論とは何ぞや。

『無神論』とは単純に神の不在を意味するのではなく、『人類を一つに束ねる絶対的真理など存在しない』というアナーキーな発想に似ている。

いわば『神』というのは、絶対的正義にして、不変の真理。

いつの時代、いかなる者、いかなる状況においても、それが「正しい」とされる人間世界の基軸である。

ぶれない基軸があるから、人は自らを慎み、あるべき方向を目指す。

学校に喩えれば、校則があるから、皆、一律に制服や髪型を守るし、授業中のスマホや音楽プレイヤーも慎む。

しかし、無神論は校則を否定する。

なぜ高校生が茶髪にピアスではいけないのか。

高校生のあるべき服装とは何だ。

そもそも校則など誰が決めたのだ。

すると校長はこう言うだろう。「生徒が安全、快適に学校生活を送り、勉強に集中する為」。

いや、それは解るが、茶髪でも勉強に集中はできるだろう。ピアスがどんな学校生活の妨げになるのだ。

異議を唱え出せばきりがない。

やがて矛盾や無理解に絶望した学生はこう言うだろう。校則など要らない。それが絶対的正義と言うが、校則なんて、学校長が勝手に決めたルールじゃないか……。

となると、学生らは、どこに行動の基準を求めるのだろう。

生徒自身か。あるいは、生徒会か。

いずれにせよ、二度と校長に意見を求めることはない。

ルールは自分たちで作り出す!

それがマスになれば、社会はどうなるだろう。そして世界の基軸となるものは?

ここでは『社会主義』という言葉が使われているが、そのの定義は幅広く、単純に「共産主義」「全体主義」というものでもない。

後述に注目しよう。

地上から天に達するためではなく、天を地上に引きおろすために、まさしく神なしに建てられるバベルの塔の問題でもあるからだ。

たとえば、学校で一番偉いのは校長先生だ。

校長先生が学校の方針を決め、生徒に指導する。

しかし、生徒が自主性の観点から、校長先生に生徒に従うことを求め(天を地上に引きおろす)、ルールも無しに学校自治を始めたらどうなるだろう。
「皆、髪型もスマホも、何でも好きにしていいよ、これからは生徒自身が学校生活を取り仕切る!」となれば、それでも安全で快適な学校生活が保証されるだろうか。
授業中に音楽を鳴らしたり、気の向いた時に登校したり、各自が好き勝手に振る舞うようになれば、事実上、教育機関としての学校は崩壊するのではないか。

その点、アリョーシャは、自らの規範を『神』に求め、それを否定することを良しとしなかった。
中途半端にルールを守るのではなく、何が真理で、何が正しいのか、どうすれば人は幸福になれるのか、根源的な答えを求めて、自身を修道に捧げた。

信仰とは、もしかしたら、神を信じることではなく、「神を正しい」と信じる自分自身を信じ抜くことかもしれない。

そして、そんなアリョーシャだからこそ、淫蕩な父フョードルさえも涙を流して、救いと温もりを求めたのだ。

これがこの作品の原点であり、一番重要なテーマではないだろうか。

(*1) 訳注
封建社会で第一階級は国王や大名、第二階級は貴族、僧侶、第三階級はブルジョアジーを中心とする平民、そして第四回旧はプロレタリアートを示す。

『カラマーゾフの兄弟』に関する覚え書きです。 気になる箇所をその都度ピックアップしているので、整合性に欠けるかもしれませんが、備忘録として楽しんで頂けると有り難いです。概要はこちら。