2018/06/05 改訂版 「親を捨てよ 家を出よう」「大学には行った方がいいの?」「好きなことをして生きるは正解か」を追記

本当の『鬼畜』は誰? 松本清張の描く「子捨て」と「子殺し」

本当の『鬼畜』は誰? 松本清張の描く「子捨て」と「子殺し」
愛人と生活費で揉めた宗吉は三人の子どもを押しつけられ、妻・お梅の怒りを買う。途方にくれた宗吉は子どもを捨てることを思い付く。緒形拳、岩下志麻、小川真由美の鬼気迫る演技が胸を打つ野村芳太郎監督の名作を画像と動画で紹介。我が子に手をかけた宗吉とお梅も人面獣心の鬼畜かもしれないが、幼い三人の子どもを置き去りにした愛人・菊代の態度はどうなのか。母の視点から分析するレビュー。松本清張の小説の抜粋も掲載しています。

鬼畜 緒形拳 岩下志麻 松本清張

『この男、まさに鬼畜! 許せん!!」と文庫本の帯にあるが、それでもやっぱり<鬼畜>は生みの親である『菊代(=小川真由美)』という印象に変わりない。どんな理由があれ、ある日突然、三人の子供を置いていっていいわけがないからだ。

男が養育費を払わない、口先ばかりで離婚しない、子供に暴力をふるう、等々、腹立ちの理由はあっても、母親は自分の生んだ子供をそうそう『置き去り』にできるものではない。実際、精神的にも経済的にも過酷な状況にあっても、必死に子育てしている人なら分かるのではないだろうか。

もちろん、責任の一端は、無計画に愛人に子供を産ませた宗吉(=緒形拳)にもあるが、それでも、やっぱり、菊代の行動に首をかしげざるを得ないのは、あまりにあっさり『置き去り』にできる心理にまったく共感するところがないからだろう。

むしろ、ある日突然、愛人の子供を三人も押し付けられたお梅の怒りと苛立ちの方が理解できるのは、私が母親の視線でこの作品を読むからかもしれないが、たとえ、それが松本清張の意図とは全く違っても、本当の鬼畜は誰かと問われたら、『菊代』と応えざるを得ないのだ。なぜって、菊代が短気を起こして、三人の子供をほっぽらかしたりしなければ、もっと何とかなったかもしれないからだ。
どんなに苦しくとも、絶対にそれだけはしない世の母親たちの心情を思えば(たとえ自分の口に白飯が入らなくても、バイト掛け持ちで睡眠時間が5時間でも)、ますますそのように感じる。

映画では、お梅が、一歳の子供の口に白飯を突っ込んだり、宗吉が崖から子供を落としたり、誰がどう見ても鬼畜の振る舞いではあるが、それでも、やっぱり私が鬼畜に感じたのは、三人の子供を残して、ぷいと出て行った菊代の後ろ姿なのである。

松本清張『鬼畜』より

竹中宗吉の人物像

竹中宗吉は三十すぎまでは、各地の印刷屋を転々として渡り歩く職人であった。こんな職人は今どきは少なくなったが、地方には稀にあるのだ。彼は十六のときに印刷屋に弟子入りして、石版の製版技術を覚え込むと、二十一の時にとびだして諸所を渡り歩いた。違った印刷屋を数多く歩くことを、技術の修行だと思っていたし、実際そうでもあった。。
宗吉は、二十五、六になると立派な腕の職人になっていた。殊にラベルのような精密な仕事がうまく、近県の職人仲間の間で彼の名を云えば、ああ、あの男か、と知らぬ者が無かった。それぐらいだから雇い主は、彼に最上の給金を払って優遇した。彼は酒もあまり飲めず、女買いも臆病な方で、あまった金は貯金通帳にせっせと入れた。将来、、印刷屋を開くつもりはあったのである。

*

宗吉は三十二歳でようやく渡り職人をやめて、小さいながら印刷屋の主になった。
整備は中古の四裁機械一台であった。が、これはラベルのような小物を刷るには格好であった。石版印刷の上がりは、色版という製版技術が効果を左右する。宗吉の腕は多年処方を渡り歩いて鍛えているので、刷上がりは見事であった。

*

宗吉が、はじめてお春(=菊代)の身体を知ったのは、それから三月ぐらい経ってからである。<中略> 宗吉の商売は順調だったから「ちどり」で使うだけの金は自由になった。彼はかなりのチップをお春に出した。

*

「そう、浮気でするならいやよ。わたしは誰ともこんなことをしたことないのよ」
「浮気じゃない。お前のことは考えている」
「そう、きっとね? 捨てないでみてくれるのね?」
女のこの質問の意味の重大さを彼は半分気付いていた。彼の熱い頭の中は、いまの商売の順調を勘定した。この女ひとりくらいは、何とかなりそうな気がした。

宗吉という男は、本当に平々凡々とした印刷屋の職人で、小市民らしく、ちっと小金ができれば上等な料理屋で遊んでみたくもなるし、羽振りがよければ、女の方から声をかけてくる。自分の成功を実感する為に金を使い、女を抱く、というのは、ありふれた話で、宗吉も、男と生まれたからには、一度はそんな眩しい思いも味わってみたかったのだろう。

ところが商売がだんだん傾き、菊代と三人の子供への養育費も滞りがちになると、しびれをきらした菊代は三人の子供を引き連れ、宗吉とお梅の住まいに押しかけてくる。良妻賢母とまではいかなくとも、必死で夫を支え、小さな印刷屋を切り盛りしてきた妻のお梅にしてみたら青天の霹靂である(しかも3人)。そして、この怒りが夫にではなく、愛人の菊代とその子供に向けられるのが、いかにも『女』という感じ。そう、不思議だけれども、浮気のばれた男の妻は、男ではなく、愛人を恨むんだよね。

「畜生」
と、いきなり板の間から菊代が叫んで起き上がった。足を踏みならして来た。
「お前たち夫婦は鬼のような奴だ」
蚊帳のすぐ横で彼女はわめいた
「それでも人間か。そんなにこの男が欲しかったら、きれいに返してやる。取られぬようにするがいいよ」
菊代の声は喉の奥から発声して異様だった。お梅に云っているのだ。
「その代わり、この子たちは、この男の子供だからね。この家に置いて行くよ」

そして、菊代が去った後、お梅が衝撃の言葉を口にする。

これはあんたの子かえ? 似てないよ
あれは女の直感ではなかろうか。彼が気付かないものをお梅は見破ったような気がする

このあたり、男というのは実感がない。女性は十日十月、胎の中に持ち歩いて、うんうん唸りながら産んだ思い出があるけれど、男は原因から結果に至るまでの生体的な繋がりがなく、かろうじて『情』というもので絆を認識するのみである。女性は自分の子供を見間違えることは絶対にないけれど、男性は「そうだ」と言われたら、そう思い、「そうじゃない」と言われたら、そうじゃないかも……と思い込む、あるいはそう思いたい心理があって、このあたりが認知で揉める理由の一つだろう。

いずれにせよ、これが引き金になり、父と子の心の絆にあっけなくひびが入る。

そして最初の死亡事故が起きるが、ここで飛び出す言葉もまた衝撃だ。

宗吉は三畳に足早に行った。寝ている筈の小さな顔がそこに無かった。布団だけがもり上がっている。宗吉は声を吞んだ。うす暗いところに眼をさだめると、庄二の顔の上には古毛布がくしゃくしゃになって落ちていた。毛布は重々しい皺をつくっている。それはいかにも子供の顔の上にばさりとかけたという感じであった。
<中略>
医者は死亡診断書を書いた。病み衰えたこの子の死に、医者は疑問を持たぬようだった。宗吉は安心した。
これで、あんたも一つ気が楽になったね
とお梅は宗吉に云った。眼もとに微かな笑いを見せた。近ごろ、滅多に無いことであった。

この言葉も、子供でさんざん苦労した者にしたら、非常にリアルな言葉だ。
皆が皆、虐待のような気持ちを持つわけではないけれど、「子供が一人でラーメンを作れるようになり、ほっとした」「日曜日、子供が旦那と公園に出掛けてくれて、ほっとした」みたいな開放感は誰でも少なからずあるし、手が離れるほどに気持ちも楽になるのは本当の話だから。
お梅でなくとも、子育ての負担が消えた時、真っ先に出てくる言葉は「ああ、楽になった」ではなかろうか。
もちろん、このケースは極端であるけれど、『楽になった』という言葉に、親の苦悩や葛藤がぎゅっと凝縮されているような気がするのだ。

そうして、味をしめたお梅と宗吉の子捨ては、ついに長男の利一へと及ぶ。

この子は、おれの子であろうか、とまたしても宗吉は疑問が起った。いや、おれの子ではあるまい。眼が第一違う。鼻も口も違う。菊代には似ているが、おれに似たところは少しも無いではないか。おれの子ではない、おれの子ではない、と自分に納得させた。

これもまた生々しい自問自答である。
いかに鬼畜のような感情を覚えようと、『我が子』であれば、手をかけることはできない。
宗吉がお経のように「おれの子じゃない、おれの子じゃない」と唱えるのも、やはりそこに人間性があり、親としての感情が渦巻いているからだ。
言い換えれば、人間と鬼畜を隔てているのは、ただ一点、自分の子であるか否かという実感だけである。
それが『親』の本質であり、「人間であること」より「親であること」の方が、人にとってははるかに重いのだ。この場合、皮肉であるけれど。

宗吉は、利一を抱いたまま立ち上がった。子供は覚えずに睡りつづけている。その顔も暗くてよく分からなかった。その方が宗吉には助かった。
宗吉は利一を抱いたまま、崖の上に立った。暗闇なので、遠近感がなく扁平であった。ただ、下の方で波が鳴っているだけである。が、何も見えないところに、下の音だけを聴くのは、かえって上下の距離感がせまった。
宗吉は利一をほうった。暗いので物体の行方は眼に見えない。彼の腕が急に脱げたように軽くなっただけであった。その軽さは、どこか彼の解放感に通っていないか。彼は瞬間眼ををつむると、背中をかえしてもとの方へ一散に駈けた。

松本清張も上手いよね。
子供の顔が見えない方が好都合という殺人者の心理。
そして、ほうった後の「物体」という表現。
親としても人間としても心が死んだ瞬間だ。
平凡な小市民だった男が鬼畜となる時、相手が『人である』という認識はない。

そして、この殺人は、意外なところで足がつく。冒頭に登場する「印刷の仕事」がその伏線だ。
決定打となる物的証拠も面白い。それがまた「子供の遊び」に端を発している……という点に物語性を感じる。

ただ一点、小説と映画が異なるのは、映画には“映画らしいエピソード“が挿入されている点である。
小説としては、松本清張の終わり方で十分だと思うし、映画は映画らしく心に迫って、これまた素晴らしい。
緒形拳のあの演技なら、松本清張も納得ではないか。

この事件で裁かれるのは、宗吉とお梅であり、生みの親としての菊代の咎は描かれていない。
(現代なら育児放棄として社会的に制裁されるだろうが)

我が子の悲惨な運命を知った菊代の心情はいかなるものか。

そこであっさり割り切れたら、それこそ<鬼畜>である。

文庫本のタイトルになっているが、『鬼畜』自体は、53ページほどの中編である。興味のある方はぜひ。

タイトル作をはじめ、「潜在光景」「顔」など人間の本性に迫るミステリーを収録した珠玉の短編集。
犯罪の中に人間があるというよりは、人間の中に犯罪がある、という感じの筆致。
推理小説という枠を超えた、リアルな人間物語。

鬼畜 緒形拳 岩下志麻 松本清張

鬼畜 緒形拳 岩下志麻 松本清張

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