大審問官=悪魔の現実論を論破せよ『カラマーゾフの兄弟』随想(10)

書籍

ドストエフスキー・マラソンの最初の山場、叙情詩『大審問官』。

その前のイワンとアリョーシャの議論だけでも十分長いが、それにトドメを刺すように、イワンが自作を披露する。これもスキップしたくなるが、終盤に繋がる重要なパートであるのと、ドストエフスキーの懐疑と憤りの集大成みたいな恨み節なので、頑張って読んでみよう o(・`ω´・)○))

大審問官に姿を借りたドストエフスキーの怨念

舞台は十六世紀。異端審問のもっとも恐ろしい時代。

計り知れぬ慈悲心から、キリストは人間の姿で人々の間をまわってみたいと思い、南国の都市の≪炎熱の広場≫へ降り立つ。つい前日、その広場の≪壮麗な火刑場≫で、百人におよぶ異端者が焼き殺されたばかりだった。
そこにキリストが姿を現すと、群集は感泣して、彼を取り囲む。そして、一人の母親が「わたくしの子供を生き返らせてくださいませ」と叫ぶと、少女は本当に棺の中で身を起こし、奇蹟が起きるのだ。

その時、九十歳近い老人で、大審問官たる枢機卿が通りかかる。大審問官はキリストを捕らえると、神聖裁判所の牢獄に閉じ込め、夜遅く、一人で牢獄を訪れ、キリストと対峙する。

大審問官のキリストに対する疑問は、悪魔の三つの問いかけ、いわゆる『荒野の誘惑』になぞらえて語られる。

マタイオスによる福音

イエスは悪魔から誘惑を受けるため、聖霊に導かれて荒野に行った。そして四十日間、昼も夜も断食した後、飢えてしまった。

すると、悪魔が誘惑しようとやって来て、イエスに言う。

■第一の誘惑
悪魔 「もし、おまえが神の子ならば、そこらの石がパンになるように命令したらどうだ」
イエス 「『人はパンのみに生きるものではない。神の口から出る一つ一つの言葉で生きる』と旧約聖書に書いてある」

■第二の問い

次に悪魔はイエスを聖なる都エルサレムに連れて行き、神殿の屋根の上に立たせて言う。

悪魔  「お前が神の子なら、飛び降りたらどうだ」(本当に神の子なら、天使がその身を支えて、助けるだろうから)
イエス 「『お前の神である主を試してはならない』と書いてある」

■第三の問い

次に悪魔はイエスを非常に高い山に連れて行き、世界中の国々とその繁栄ぶりを見せる。

悪魔 「もしお前がひれ伏して、わたしを拝むなら、これをみなお前にやろう」
イエス 「退け、サタン。『お前の神である主を礼拝し、ただ主に仕えよ』と書いてあるのだ」

*出典:新約聖書 共同訳全注 (講談社学術文庫)

大審問官いわく、「この三つの問いには、人間の未来の歴史全体が一つに要約され、予言されているのだし、この地上における人間の本性の、解決しえない歴史的な矛盾がすべて集中しそうな三つの携帯があらわれている」。

『パン』とは、現実社会に生きる上で絶対不可欠な物質のこと。食料、給料、住まい、衣類、etc。「人はパンのみに生きるものではない」といっても、現実に食べる物や快適な住まいがなければ人は死んでしまう。資本主義社会においては、会社に就職して給料を得るなり、事業を起こして利益をあげるなりして、十分なお金を得ることが不可欠で、ここに大きな葛藤がある。たとえば、「資産家の老婆を騙して1億円を手に入れる」か「清廉を守って飢えて死ぬ」か、どちらか選べと言われたら、たいがい前者を選ぶだろう。「偽装食品を売りつけて10億円売り上げ、100人の従業員を養う」か「清廉を守って倒産も辞さない」か、どちらか選べと言われたら、やはり前者だろう。現実にはお金や食料がなければ生きられない。イエスのように毅然と拒めるのは少数派。商売と屏風は曲がらねば立たない、という言葉があるように、理想で人は食えない。

『主を試してはならない』というのは、「いんちき起業セミナー」に喩えると分かりやすい。たとえば、失業や左遷など人生のどん底を経験している時に、「先生の言う通りにすれば、すぐに成功します」というセミナーに誘われたら、はまってしまう人も少なくないだろう。たとえ、そのセミナーが法外な受講料を要求し、ネズミ講まがいの勧誘をやっていたとしても、横繋がりでいくらかの収入が得られるなら、良識も忘れて、仲間増やしに奔走するはずだ。つまり、インチキみたいな儲け話でも、棚からぼた餅みたいな幸運が付いてくるなら、人は正義よりもボタ運を選ぶし、聖者よりも、それをもたらしてくれる有力者を選ぶようになる。どん底でも正義を重んじ、清廉潔白な行いを選ぶほど、人間は強くもないし、立派でもないというのが、この喩えの主旨(多分)。

大審問官は『奇蹟』にたとえ、キリストと人類を次のように断罪する。

一歩踏み出しさえすれば、とびおりようと身動きしさえすれば、とたんに神を試みることになり、神への信仰をことごとく失って、お前が救うために来た大地にぶつかって大怪我をしたにちがいないし、お前を試した聡明な悪魔が大喜びしたにちがいないことを、お前はさとったのだ。だが、もう一度言うが、お前のような人間がたくさんいるだろうか? そして本当にお前は、人間もこんな試練に堪えられると、たとえ一瞬の間でも考えることができたのか? 人生のこんな恐ろしい瞬間、つまり心底からのいちばん恐ろしい、根本的な、やりきれぬ疑問に苦しむ瞬間に、心の自由な決定だけですましていられるなんて、そんなふうに人間の本性は創られているのだろうか。

人間は奇蹟なしにいつづけることなぞできないため、今度はもう新しい、自分自身の奇蹟を作りだして、祈祷師の奇蹟や、まじない女の妖術にひれ伏すようになる。

お前は人間をあまりにも高く評価しすぎたのだ。人間というのは、お前が考えているより、ずっと弱く卑しく創られているのだぞ!

『奇蹟なしに』というのは、『目に見えて報いがある』に喩えると分かりやすい。たとえば、聖書の教えは真っ当であるけれど、その通りにしたところで、すぐに儲かったり、人気者になったりするわけではない。でも、いんちき起業セミナーなら、入会者を連れてくるだけでお金がもらえたりする。切羽詰まった時、どちらを選ぶかといえば、やはり後者だろう。正しい行いを積み重ねたところで、いつまでたっても豊かになれないとしたら、信じ続けるのも馬鹿らしくなる。それより、目に見えて、ざくざく儲かる、素敵な恋人ができる……という話の方が100倍有り難いだろう。大審問官が指摘するのは、義よりも実を取る人間の浅ましさと、それに抗えない現実社会の厳しさだ。「強い人たちが堪え忍んだことに、それ以外の弱い人たちが堪えられなかったからといって、何がわるいのだ?」という台詞にあるように、大審問官はこの世に生きることの難しさを十分に承知している。「誘惑に抗え」というキリストの尊い教えが、逆に人間を苦しめていると憤るわけだ。

ゆえに、大審問官はこう断罪する。

実際のところ、お前はあのとき(国々の栄華をやろうと誘惑した時)すでに帝王の剣を受け取ることもできたはずだった。なぜお前はあの最後の贈り物をしりぞけたのだ? あの力強い悪魔の第三の忠告を受け入れていれば、お前は人間がこの地上で探し求めているものを、ことごとく叶えてやれたはずなのに。つまり、だれの前にひれ伏すべきか、だれに良心を委ねるか、どうすれば結局すべての人が議論の余地ない共同の親密な蟻塚に統一されるか、といった問題をさ。なぜなら、世界的な統合の欲求こそ、人間たちの第三の、そして最後の苦しみにほかならぬからだ。

人間は全体として常に、ぜひとも世界的にまとまろうと志向してきた。<中略> 世界と帝位を引き受けてこそ、全世界の王国を築き、世界的な平和を与えることができるはずではないか。とにかく、人間の良心を支配し、パンを手中に握る者でなくして、いったいだれが人間を支配できよう」

『世界的な統合の欲求』は、『何が真理か』という問いかけに置き換えると分かりやすい。
たとえば幸福論一つとって見ても、あの人はああ言い、この人はこう言い、どれが真理か分からない。スローライフがいいのか、男大空みたいな熱い生き方がいいのか、100人に聞けば、100通りの幸福論があり、この世にただ一つの絶対真理を探究する方が馬鹿らしいだろう。にもかかわらず、多くの人は、「ひれ伏すべき」一つの真理を求めている。「これこそ神!」と信じられる人やものを検索しまくって、不安な気持ちを落ち着かせようとしている。自己啓発系を渡り歩いている人とか。
それはもう世界中が試行錯誤を繰り返しているわけで、未だかつて、一つの理想に結ばれたことなど無いのではないか。いや、大半は心では理解しているが、そうではない人も少なからずいるわけで、その為に、争い、憎しみ、多くの悲劇を生み出してきた。
その上で、大審問官はキリストを追及する。なぜ、第三の誘惑にうなずき、世界と帝位を引き受けなかったのか、と。もし、キリストが世界の覇権を手にしていたら、義によって人の世を治め、混乱も、破滅も、引き起こさなかったはずだ。

だから大審問官は言う。

本当の話、彼らはパンそのものより、われわれ(=悪魔)の手からパンをもらうことのほうをずっと喜ぶだろう! なぜなら、以前われわれのいなかったころは、自分らの稼いだパンが手の中で石ころにかわってしまってばかりいたのに、われわれのところに戻ってくると、ほかならぬその石ころが手の中でパンに変わったという事実は、あまりにも記憶に新ただろうからな。永久に服従するということが何を意味するか、彼らはどんなに高く評価しても評価しすぎることはないのだ! そして、このことをさとらぬかぎり、人間は不幸でありつづけるだろう。その無理解をいちばん助長してきたのはだれか、言ってみるがいい。いったいだれが羊の群れをばらばらにし、勝手知らぬいくつもの道にちらばしたのだ?

真面目に商売していた頃はちっとも利益が上がらなかったのに、ジュースを水で薄め、製造年月日を偽装し、高級牛肉に品質の悪いクズ肉を混ぜて売ったら、ウハウハだ! となれば、大多数は悪魔のやり方に賛同するはずだ。「永久に服従する」というのは、もはや良心に立ち返ることなく、現実に即した方法で突っ走ることを意味するが、大審問官は「それでいいのだ」と頷き、下手に立ち止まって、良心に問うたりすれば、かえって人間は不幸になるだけ、と指摘する(過大に解釈すれば)。
言い換えれば、キリストが良心だの、尊さだの、この世に持ち込んだせいで、人間はいっそう罪の意識に苦しみ、ジレンマに落ち込む結果になった。それより、悪魔の声に従い、現実に沿った生き方をした方がよっぽど楽ダヨ……というわけ。

大審問官を論破する

パンか、神の義か。いつの時代も難しい問いかけである。現実を見渡せば、大審問官の方が尤もな気もするが、果たしてそうだろうか。

一つ一つ、見ていこう。

第一の誘惑 人はパンのみに生きるにあらず

パンの誘惑について、大審問官は次のように主張する。

お前にはわかっているのか。何世紀も過ぎると、人類はおのれの叡知と科学との口をかりて、≪犯罪はないし、したがって罪もない。あるのは飢えた者だけだ≫と公言するようになるだろう。≪食を与えよ、しかるのち善行を求めよ!

≪われわれに食を与えてください。天上の火を約束した人が、くれなかったのです≫ そうすればもう、われわれが塔を完成してやる。なぜなら、食を与える者こそ塔を完成できるのだし、食を与えてやれるのはわれわれだけだからだ。ああ、われわれがいなかったら、人間どもは決して、決して食にありつくことはできないだろう! 

現実に生きる上で、食料、住居、衣類などは欠かせないものだ。特に資本主義社会において、金銭は無くてはならないものである。幸福は金では買えないと言っても、、、人間の価値はお金で決まらないと言っても、、、札束の輝きに勝るものがあるかい! ……という、黄金リビドーで現実社会は回っている。昔も、今も、これからも。

しかし。

肉体が死ねば心も死ぬように、心が死ねば肉体も死ぬのではないか。

そのいい例が、自殺だ。裕福な資産家やセレブでも、自殺する人は少なくない。本当にお金で身も心も満たされるなら、この世で一番幸福なのはビル・ゲイツとジェフ・ベソスのはずだ。でも、そんなことは本人だって言い切れないだろう。

大審問官は『パンへの執着』に重きを置いており、逆のケースについては言及がない。パンはあるけど、心は満たされない場合の処方箋だ。

言い換えれば、悪魔の誘惑に頷こうと、拒否しようと、人間の幸不幸は肉体(=物質)と心の両面で決まるのであって、「どちらか」という事は絶対にない。あえて言うなら、肉体の飢餓の方が心の飢えよりいっそう強いというだけで、心の死も肉体の死と同じくらい深刻なはずである。肉体の飢餓は一個のパンで解決するが、心の飢えはちょっとした親切や慰めぐらいで解決しないからだ。むしろ、心の飢えの方が肉体の飢餓よりいっそう重傷ではないか。

そう考えると、パンに執着する大審問官もずいぶん一方的で、人間の心を軽く見積もっているように思う。「パン」で、世の全ての問題が解決するなら、その方がよほど単純ではないか。極端な話、余裕のあるベーシックインカムを導入して、世界中の誰もが働かなくても日々の暮らしには困らない程度の住まい、食料、衣料などを入手できるとしたら、地上の不幸は一掃されるはずだろう。でも、決してそうはならない。腹が満ちれば、次は生き甲斐、次は名誉、次は権力と、次々に欲望は膨らむ。もしかしたら、悪魔が思う以上に、人間の心は貪欲なのだから、パンの誘惑に頷こうが、拒否しようが、いつかはやっぱり『飢え』を感じて苦しむだろう。
『神の口から出る一つ一つの言葉で生きる』と答えたキリストは、信仰心が厚いというより、人間というものを悪魔より見切っていたのだ。
悪魔は身体の飢えしか見てないが、キリストはパンではどうしようもない心の飢えも見越して愛を説いたのだから。

第二の誘惑 『お前の神である主を試してはならない』

イエス・キリストの時代ならともかく、現代においては、非科学的な奇蹟に易々と心引かれるほど単純ではない。もちろん、インチキ商法、インチキ医療、インチキ霊媒、インチキの類いは数あるが、学問の発達と共に、人間の知性や判断力も徐々に向上しているのではなかろうか。もっとも、IT全盛期においては、デマ、ステマといった、新たな詐欺が横行しているが。
また科学技術の進歩に伴い、人が求めるものも、より具体的で、実質的なものになっていく。豊作を願うのに、雨乞いよりも、栽培法の開発や土壌改良が重視されるのと同様、現代と未来においては、奇蹟よりも実証がより大きな意味を持つはずだ。

大審問官は「この三つの問い(誘惑)には、人間の未来の歴史全体が一つに要約され、予言されている」と定義するが、第二の誘惑に関しては、人間の意識は今後も大きく変わっていくのではないかと思う。

ドストエフスキーが生きた19世紀末には、本作で描かれるような虐殺や虐待、迷信が当たり前に存在したかもしれないが、そのロシアでさえ、21世紀にはまともな法治国家となり(一応)、子供や女性の人権も大きく向上している。今時、先進国において、将軍の命令によって犬の大群に子供が噛み殺されるなどあり得ないし、いくら戦時中でも、兵士が赤ん坊を銃剣で突き刺せば、軍法会議にかけられ、処罰される(正規の軍隊であれば)。それほどに人も社会も進歩しているし、将来的にもその可能性がすぼむことはない。人間の本性は変わらなくても、暮らしを豊かにする技術や社会の意識は確実に進歩し続けるのであり、ある部分においては、神など全く必要としなくなっていく。現に、暮らしに困った時、教会より法律事務所やハローワークを訪ねた方がはるかに実用的だろう。

そういう問題ではないかもしれないけれど、大審問官は「人類社会が緩慢なれど確実に進歩する」ということを全く計算に入れずに、人間は脆いと断罪している。

もし、ドストエフスキーが21世紀の現代でばりばりのブロガーをやっていれば、大審問官の問いかけは全く違った内容になっていたはず。

そういう問題ではないかもしれないけれど――人間もそこまで愚かではないのだ。

第三の誘惑 ただ主に仕えよ

自分の意のままに社会を動かし、理想を実現しようと思ったら、権力を握って頂点に立つのが一番だろう。

だが、それも、19世紀までの話。

今ではそれがどれほど脆いか、多くの人が歴史を学んで知っている。情報化、自由化、構造の変化、等に伴い、権力の質や在り方も徐々に変わっていく。今では情報を発信する市民が新たな権力を持ち、執政者と拮抗するほどなのだから、22世紀、23世紀にもなれば、統治のシステムも大きく変わっているだろう。より強大な支配を望むなら、権力よりも情報操作の方が旨味がある。未来においては強制よりも洗脳の方がより効果的だろうから、本当に懸念すべきは権力への傾倒よりも個人レベルにおける情報の偏向と拡散なのだ。

叙情詩の悪魔とキリストは、権力よりも、人間の食する知恵の実の数こそ心配すべきだった。それは権力も超えて、万物創造の域まで到達しようとしているのだから。

人間は大審問官が案じるほど弱くもない。

本当に暗愚なら、とおの昔に滅びているし、明日にも地球を七回破壊することができるだろう。

壊滅的な打撃を経験しても、その都度、立ち上がってきた。自由、平等、平和、友愛、それこそキリストの教えの通りに。

そう考えれば、キリストは十分にその役割を果たしてきたし、これからも指針であり続けるだろう。

そういう意味で、キリストは永遠の真理だ。大審問官がどうケチつけようが、やっぱり未来永劫に求められるのである。

アリョーシャの答え

叙情詩『大審問官』の結末はこうだ。

「相手はふいに無言のまま老人(=大審問官)に歩みよると、血の気のない九十歳の老人の唇にそっとキスするのだ。これが返事のすべてなのだ。老人は身震いする、唇の端で何かがぴくりと動く。老人は戸口に歩みより、扉を開けて言う。『出て行け、もう二度と来るなよ……まったく来ちゃならんぞ……絶対に、絶対にな!』 そして≪町の暗い広場≫へ放してやるのだ。囚人は立ち去っていく」

「で、老人は?」

「今のキスは胸に残って燃えているのだが、老人は今までどおりの理念に踏みとどまるのさ」

「兄さんもその老人といっしょなんでしょう、兄さんも?」アリョーシャが悲痛に叫んだ。<中略> 心と頭にそんな地獄を抱いて、そんなことができるものでしょうか(=世界や人間を愛すること) いいえ、兄さんはきっとその連中の仲間に入りに行くにきまっている……もしそうじゃなければ、自殺するほかありませんよ、堪えきれずにね!」

「どんなことにでも堪え抜ける力があるじゃないか! カラマーゾフの力さ……カラマーゾフ的な低俗の力だよ」

「それは放蕩に身を沈めて、堕落の中で魂を圧殺することですね <中略> それが『全ては許される』ということですか? 」

「俺はね、ここを去るにあたって、世界中でせめてお前くらいは味方かと思っていたんだよ。だが、今こうして見ていると、お前の心の中にも俺の入り込む場所はなさそうだな、隠遁者の坊や、『すべては許される』という公式を俺は否定しない。だからどうだと言うんだね、そのためにお前は俺を否定するのか」

アリョーシャは立ち上がり、兄に歩みよると、無言のままそっと兄の唇にキスした。

アリョーシャのキスは『キリストのキス』であり、キリストのキスはドスとエフスキーの究極の回答である。

大審問官に姿を借りて、恨み節を吐き出したところで、結局は『それ』が世界を救うと言い切っているわけだ。

その根拠となるものは、アリョーシャのイワンに対する情愛に垣間見える。神を疑うエキセントリックな兄にも心を込めて接吻するように――ロシアの現状を憂い、人類にさんざん失望させられても、人間ってやつに接吻せずにいない、それがドストエフスキーの人間愛であり、人類の苦悩に対する回答である。

19世紀も、現代も、未来も、神や人類に対する不信は姿を変えて幾度となく現れ、真っ当に生きようとする人々を不安にさせるだろう。

しかしながら、その処方箋はいつの時代も同じであり、それ故に聖書も有史以前から読み継がれてきたといえる。

それは全く馬鹿げた回答であり、単純すぎるかもしれないが、それを心底から否定できる人間も皆無なのである。

ま、論破ってほどでもないが、随想として。

イワンの虚無感

以下は、イワンが自らの虚無感を、大審問官の失望になぞらえてアリョーシャに語る台詞。

つまり、彼(大審問官)は荒野でみずから草の根を食し、自分を自由な完全な人間にするために、肉欲を克服しようと必死にはげんできたのだが、それでも生涯を通じて人類を愛し続け、あるときふいに開眼して、意志の完成に到達するという精神的幸福などたいしたことはないと気づいたのだ。
なぜなら、そのためには、ほかの数百万という神の子たちがもっぱら笑い物としてさらされるために取り残され、せっかくの自由を使いこなすことも絶対にできないし、この哀れな反逆者の中から塔を完成するための巨人など決して現れるはずもなく、かつて偉大な理想家が調和を夢みたのはこんな鵞鳥どものためにではなかったのだ、ということを一方で確認しなければならないからだ。

たとえ彼のように荒野での苦行に一生を台無しにしながら、なお人類への愛を断ち切れなかった男にとってだろうと、苦しみではないだろうか?

人間を信じたいと思う。でも、目に映るのは馬鹿ばっか……こんな奴らの為に、なぜこちらが心を砕いて、真摯に尽くさねばならないのか、という虚無感。教師の燃え尽き症候群みたいな。
それでもなお人間を愛さずにいない、良心という重荷。だが、この重荷を与えたのも、神に他ならない。
『神がなければ、全ては許される』――人を憎むことも、善行を止めることも、世界に無関心でいることも。
だが、神の教えは切っても切れない。イワンやラスコーリニコフのような無神論者でさえ、良心の狭間で苦しむ。
突き詰めれば、人間の本性は善性であり、神的ということ?

『カラマーゾフの兄弟』に関する覚え書きです。 気になる箇所をその都度ピックアップしているので、整合性に欠けるかもしれませんが、備忘録として楽しんで頂けると有り難いです。概要はこちら。