曙光 Morgenrood

第3章 海洋情報ネットワーク

-海洋情報部-

二つの正義と罪の平原 文明を支える鉱業

Introduction

海洋情報ネットワークのプロトタイプ構築が着々と進む一方、ヴァルターとリズの関係はぎくしゃくする一方。お互いに心の距離の取り方が分からず、喧嘩を繰り返す。そんな時、採鉱プラットフォームのマネージャー、ダグが重病を患い、ヴァルターは援助と見舞いに訪れる。病床のダグから聞かされたのは意外な言葉だった。

『ヤマアラシのたとえ』もあって、出会った頃の気持ちを取り戻した二人だが、その幸せに水を差すように、鉱山会社ファルコン・マイニング社の社長が公共放送ででMIGと採鉱プラットフォームを揶揄し、それに追随するような批判記事が一般紙に掲載される。現場にも動揺が広がる中、鉱業局から再び監査が入り、ヴァルターはアル・マクダエルの指示で調査に付き合うことになる。

だが調査官と話すうち、ヴァルターは対岸で睨み合う「二つの正義」に気付き、フラットな物の見方を教えられる。それはまたアステリアにおける彼の立ち位置を示唆するものでもあった。


Quote

 ダグは上を向き、遠い昔に思いを馳せるように目を瞬いた。 「誰だって無難に生きたい。楽して食えるなら、それにこしたことはない。だが、世の中には、それだけで納得できない人間もいる。そして、オレも、オレの父親も、なんだかんだで熱に呑まれた。他にいくらでも生きようがあったのに、結局、あの人と同じようにプラットフォームに人生を捧げちまった。お前、信じられるか? オレは人生の半分以上を工場とプラットフォームで過ごしてきたんだぜ?」

--中略--

 ダグは目を赤くしながら、「こんな時、親父が生きてりゃあな」と、ぽつりとこぼした。  その言葉は彼の胸にも突き刺さる。  二〇年後、三〇年後、今は仕事にも困らないが、いずれ体力も衰え、あちこち痛むようになれば、生計を立てることさえままならなくなるだろう。そして、入院しても、誰も見舞いになど来ない……。  ダグはそんな彼の顔をちらと見上げ、 「お前もくだらない意地を張ってないで、いい加減、収まるところに収まればどうだ。オレみたいな醜男ならともかく、お前なら道を歩いてるだけで、いくらでもチャンスがあるだろう」 「そんな単純なものじゃない」 「そうかね。オレがお前なら、今頃こんな暮らしはしてない。可愛い女房と、子供と、余裕があれば庭付きの家でも買って、のんびりビールでも飲んでる。そんな当たり前のことが手に入らない。人間にとって、これほど堪えることはない」  彼もまた十三歳の日に「当たり前の暮らし」が奪われたことを思った。父母が居て、食事があって、明日もまた今日と同じ日が続くと信じてた。 「それでも、人生はいいものだ。もう死ぬかもしれないという時に初めて実感した。何も無い、砂漠みたいな所に採鉱プラットフォームを立ち上げ、マクダエル理事長みたいに立派な人の信任を得ることもできた。そして、プラットフォームのマネジメントを任され、絶対不可能と言われた採鉱システムを皆で完成させた。今となっては頼る家族もない、女にも縁が無くて冴えない人生だったが、それでも良かったと思える。これなら、もう一度生きてもいいかな、と思えるくらい」 「気持ちは分かるよ」 「お前も無駄に突っ張るのは止めろよ。オレも三十半ばを過ぎた頃から過食症がひどくなって、あっという間に目も当てられないデブになった。その反動でオレも意気がってたよ。人に舐められまい、見下されまいと。だが、本当の強さというのは、自分の弱さを恥じないことだ。人に弱みを知られても、意気がったり、言い訳しない。雨の日も風の日も、理事長みたいに飄々としているのが理想だ。オレもいよいよ命に関わるほどの肥満になった時、理事長に呼び出されて、いろんな話をした。オレは病気じゃない、絶対に治療は受けないと言い張り、ずいぶん手こずらせたが、最終的に承諾した。本当の強さはそういうものじゃない、ありのままを受け入れることだと痛感した。あれで一皮も二皮も剥けたような気がする。今でも突っ張る性格は変わらんが、それでもあの頃よりましだ。マードックやフーリエとも仲良くやれるようになった」  ダグはふーっと深い息をつくと、 「お前も手の中にあるものを大事にしろよ。人間の十年、二十年など、あっという間だぞ」 と彼の顔を見た。

*

「今年はアステリア始まって以来のイベント・イヤーです。特に四月からサマーシーズンにかけて、商業施設やオフィスビルのオープニングセレモニーが目白押しで、各界から多数の要人や招待客が来訪する予定です。ネットワーク構想を実現するなら一日も早く体裁を整え、その必要性を積極的にPRすべきでしょう。そこで前回のミーティングでも話が出ましたように、ひとまず産業振興会で『基金』を設立し、プロトタイプ構築の資金としたいのですが、皆さまのお考えはいかがです」
 メイファン女史が意見を募ると、長年、産業振興会の要職を務めてきた高齢の男性が真っ先に口を開いた。
「その点に異存はないよ。トリヴィア政府のバックアップがなくとも、観測システムや情報共有の必要性は明らかなのだから、一日も早く基礎を固めて活動を始めた方がいい。ある程度、見通しが立てば、遠からず公的プロジェクトとして再編され、資金面でも人材面でも拡充が期待できる。まぁ、問題はどこまでクオリティの高いものに仕上げられるかだね。構想を練ってみたものの、海洋安全局の情報サービスと大差ないようでは何のメリットもない。また、あまりに大風呂敷を広げても、しまいに収拾がつかなくなり、プロジェクト自体が破綻するのが目に見えている。提案者の彼が言うように、『一般市民にも広く開かれた』というのが理想ではあるが、実現しようと思ったら、技術面でも資金面でも負担が大き過ぎる。ステラマリスのように何世紀もの蓄積されたアーカイブが存在するならともかく、アステリアはたかだか数十年の歴史だ。しかも人間社会は二つの離れ小島にしかない。同じ情報サービスを提供するなら、目に見えて実利に結びつく、高度で専門的なものに特化すべきではないだろうか」
「わたしも同意見だよ」と隣の男性も口をそろえた。「一般人は、どちらかといえば遊びにしか興味がない。技術開発だ、新産業の創出だと立派な看板を掲げたところで、一部しか関心を示さないだろう。確かに彼のアイデアは素晴らしいし、メイファン部長やキプリング社長がそこまで高めたいという志にも共感する。だが、現実はどうだ。産業振興会の勉強会に足繁く通う顔ぶれも、毎回ほとんど同じじゃないか。あれほどメディアで啓蒙しても、所詮、この程度かとがっかりさせられることも多い。それと同じことになれば、また一つ赤字プロジェクトを抱える羽目にならないか。大多数を対象としなくても、本当にそれを必要とする海洋産業や研究分野に絞り込んだ方がはるかに良い結果が得られるような気がする。末端に普及するのは、それからでも遅くはない」
 と、その時、隣に座っていたリズが思いがけなく強い口調で言った。
「実利や専門性を第一とする理事らの意見は尤もですが、それこそ海上安全局の情報サービスを拡充するだけで十分ではありませんか。わたくし共が海洋情報ネットワークを新鮮に感じたのは、『一般に訴えかける』という点です。そもそも一般人が遊びにしか興味を持たないのは、ボート遊びやリゾートホテルのように娯楽色の強い情報ばかりが前面に押し出され、学問や産業に繋がるような、素人でも分かりやすい情報が不足しているからではありませんか。一般人が興味を持つのは、不思議なものや美しいものです。そうした心の体験が海への想いを深め、好奇心を掻き立てるのですわ。どうせ作るなら、アステリアならではの、個性あるものを構築しませんか。ステラマリスとは異なる、海の玄関口です」
「しかし、ミス・マクダエル、そういうことなら、それこそ観光サイトで十分じゃないですか。お気持ちは分かりますが、下手に一般向けの情報と科学的情報を混ぜない方がいいと思います。あれもこれも取り込めば、作る側も混乱します」
 先ほどの高齢男性が穏やかな口調で疑問を返すと、代わりにキプリング社長が答えた。
「先日、我が社で若い社員を対象にプレゼンテーションを行ったのだが、皆さんのご指摘通り、一般層の見識にはがっかりさせられる点も多い。だが、見方を変えれば、社会や周りの大人が『資源』としての海の価値を教えなかった原因も大きいだろう。TVゲームしか経験のない子供にプログラミングの面白さを説いたところで何の反応もないのと同じだ。実際にソースコードを見せて、それがアプリケーション上でどのように動作するか、両方示して初めて子供も納得する。海も同じだよ。周りにボートとキャンプの話題しかなければ、それが全てになるのは当たり前だろう。観光業界は儲かるかもしれないが、肝心の『人』は育たない。次代の産業を担う高度技能者や創業者だ。我々が欲しているのは、ディンギーヨットの名手ではなく、ミス・マクダエルのように社会資源として海の価値を理解し、産業振興会の勉強会にも足繁く通う若手のはずだ。だったら、その取っ掛かりとなるものを整備するのも我々の責務だと思うがね」

--中略--

「娯楽性やメッセージ性に富んだ『オーシャン・ポータル』はどうです? 俺が少年の頃、よく通っていた海洋博物館の公式サイトが非常に優れたものでした。水族館のライブ中継やヴァーチャル飼育、フォトギャラリーなど、家族向けコンテンツの他に、海の百科事典や魚の図鑑など、学術的な内容も充実していました。アステリアも、これから調査が進めば、興味深い自然現象が次々に明らかになるでしょうし、海洋開発の歴史を編纂して、巻物風に紹介するのも意義深いと思います」
「そんなものに人が興味をもつかね」
歴史は共同体の基盤でしょう。ここには独自の文化もなければ民族もない、いろんな属性の寄せ集めですから、皆を一つに結ぼうと思えば、全体の共感を呼び起こすキャッチコピーが必要だと思うんです。とりわけ、ここで生まれ育った若い世代はアイデンティティの基盤となるものを欲しがっています。自分が何もので、どんな社会に暮らし、この先、何処へ向かうのか、明確な道筋を求めています。その根本となるのが歴史ではないですか。俺は歴史のある土地に生まれ育っているから、逆に彼らの不安や閉塞感が何となく分かるんです。アステリアは属領だけれど、だからといって何の個性もないわけではない。ここがどういう経緯で開かれ、今後どんな海洋社会を目指すのか、分かりやすく示せば、意外と興味を引くのではないでしょうか」

--中略--

「手記的なものなら素人でも手がけることができるでしょう。開発が本格化した三十年前から、ここで根を張って仕事に打ち込んできた人が大勢います。いわば歴史の生き証人です。そういう人たちがまだ現役で活躍しているうちに、貴重な資料や証言、記念の物などを残せませんか。時と共に人々の記憶も薄れたら、感動も何も残らなくなる。それに、何かの形を残せば、その人たちにとってもこの地に生きた証になるでしょう」
「それを海洋情報ネットワークに取り込む?」
「一般向けのコンテンツとして提供することは可能でしょう」
「金は誰が出すんだね」
「……それはまた後で考えます」
「実務がからむと、君は弱いな」
「その為に専門家がいるのですわ」
 リズが言い添えた。
会計、広報、営業、法務、研究。それら全てを提案者がこなす必要はありません。海洋学の専門家でなくとも、ブレーンを組織して海底鉱物資源の採掘をすることは可能です。JP SODAの創始者も元は製塩業ではありませんか。必要とあらば、皆で知恵を出し合えばいいことです。アイデアの提案者が資金集めから営業まで、一手に引き受ける義務はありません

*

 ロバート・ファーラーは五十二歳の都会的な紳士だ。
 長年ファルコン・グループのトップとして君臨し、『ネンブロットの蛇』『地下の帝王』『悪魔も喰う男』など、数々の異名を持つ会長ドミニク・ファーラーの次男で、三年前、長男の病死を受けてマイニング社の社長に就任した。
 父親のドミニクとは異なり、目の覚めるような美形で、艶のある金髪を七三のツーブロックに整え、官能的なシプレ系の香りを漂わせている。背は高く、肩幅もがっしりとして、カメラ映えのするルックスだが、男臭い筋肉質ではなく、メンズエステで念入りに手入れしたような体つきだ。
 リズも経済界のパーティーで何度か顔を合わせたことがあるが、儀礼的に挨拶を交わすだけで親しく口を利いたことはない。鉱山会社の社長とは思えぬほど垢抜け、女性を楽しませるのも得意だが、その表情には何の温もりもなく、油断ならない人物であることがありありと分かる。
 実際、ロバート・ファーラーという人間は、慈悲や公徳心といった高貴な感情とはまったく無縁の俗物であった
 それを強く実感したのは二年前のことだ。
 エヴァン・エーゼル基金の名目で、ネンブロットの遠隔の居住区に鉱害病専門の高度医療センターを設立する為の寄付金集めをしていた時、リズはマイニング社にはいっさい協力を求めなかった。
 元々、マイニング社の体質には批判的だった上、先年もマイニング社の子会社が採掘する鉱区で基準値の一〇〇倍を超える重金属の汚染水が検出されたにも関わらず、公式調査はうやむやに終わり、子会社も、これを監督するマイニング社も処罰されることはなかった。その後、汚染水が検出された採掘場は閉鎖され、労働者も全員が解雇されたが、健康障害を訴えても鉱害病の認定さえ受けられず、今も重い後遺症に悩まされている人は少なくない。そして、そのことについてトリヴィア政府の査問会で意見を求められた時、ファーラーは代理人を立て、いっさい表に出ることはなかった。御用学者にいい加減な証言をさせ、今も過失を認めようとはしない。
 だが、こんな話は氷山の一角だ。鉱業開発権の付与にまつわる収賄疑惑や税金逃れ、調査データの改ざんや労働者の不当解雇など枚挙にいとまがない

 にもかかわらず、ファルコン・マイニング社も、ファーラー一族も、何ら罰せられることなく、世界の支配者のような厚顔で政財界に幅を利かせている。
 そんな思いからリズはマイニング社を無視し続け、エヴァン・エーゼル基金が世間の注目を集めるようになっても関わりを持たぬよう注意を払っていた。
 だが、寄付金集めも終盤になり、最後のビッグイベントとして人気女性歌手のチャリティコンサートを企画した時、突然、劇場ロビーにロバート・ファーラーが現れた。そして、ソロリティのメンバーと一緒にカウンターで寄付金の受け付けをしていたリズに声をかけてきたのだ。
 その頃、リズは「一人の大学生として活動する」という信条からエリザベス・ベアトリクスの肩書きで通し、彼女が『アル・マクダエルの娘』と気付く者はほとんどなかった。だが、ファーラーは彼女の顔をよく記憶しており、わざとらしく「ミス・マクダエル」と話しかけてくる。
 入場者の列がエントランスの外まで続き、寄付金の受付け業務も手一杯で、コンサート開始に間に合うかどうかという時に、ファーラーは偉そうな態度でカウンターの前を塞ぐと、威圧するように彼女を見下ろした。
「大盛況じゃないですか。企画力や実行力はお父さま譲りのようですね」
 リズは小鳩のように怯えながらも、
「お話なら後に願えますか。ご覧の通り、手が離せません」
と毅然と返した。
 だが、ファーラーは乙女らの気を引くようにダンディな笑みを浮かべると、
「今日は鉱業に携わる一企業家として参りました。ここに五十億エルクの小切手があります。ぜひ寄付させて下さい」
 五十億と聞いて乙女らは歓声を上げたが、リズは口を一文字に結んで答えない。平然と不正を働き、社会の追及も巧みにかわし、企業家として道義的責任を果たす気など微塵も無いくせに、チャリティを利用してのうのうと五十億を寄付しようという神経がリズには信じられない。
「どうして受け取らないの、エリザベス」
「ファーラー社長自ら、わざわざ御出で下さったのよ」
「マイニング社も鉱業問題に前向きに取り組もうとしている証じゃないの」
 周りはリズをせき立てたが、リズは愛らしい顔に精一杯、抵抗の色を浮かべて動かない。五十億もの寄付金は喉から手が出るほど欲しいが、信義に反して受け取れば、彼女も御用学者やゴマすり役人らと同じになってしまう。
 公の場でなかったら、企業家としての無責任を厳しく詰りたいぐらいだが、彼女の脳裏には常に父の存在があり、「アル・マクダエルの娘」たる自負がある。今ここで感情的になれば、彼女だけでなく父が笑いものになる。そして、父に対する嘲笑は、父の事業に連なる何千何万という人々への軽蔑に繋がる──。
 リズは一呼吸おくと、ファーラーの目を真っ直ぐに見据え、
「ファーラーさん、お気持ちは有り難く頂戴します。けれど、この場で約束して下さい。幾多の鉱業問題に前向きに取り組み、業界の透明化や公正に全力を尽くすと」
「もちろん、お約束しますよ」
 ファーラーは微笑した。
「美しいお嬢さん方がネンブロットの環境改善に尽力しておられるのです。企業家でなくても、心を揺さぶられます。どうぞ、お父さまにもよろしくお伝えください。採鉱事業が成功に導かれることを願っています、とね」
 ファーラーはリズの手に一方的に小切手を握らせると、お付きの者を従えてホールの奥に姿を消した。リズはいつまでも不快感が収まらず、寄付者のリストには『ロバート・ファーラー』とだけ記録した。いっそドミニク・ファーラーの名を記し、これがいかに汚らしい欺瞞であるか、世間に晒してやりたいほどだ。
 だが、もっと許しがたいのは、後日メディアを飾ったファーラーの美談だ。
 いつの間にやら、ファーラーは女性歌手や基金のメンバーを集めて記念撮影を行い、五十億エルクを寄付した事実を華やかに演出していたのだ。
 口先では鉱山で働く人々に同情しながら痛くも痒くも感じず、業界の悪い慣習も何一つ変える気がないくせに、まるで子供に小遣いでもやるように大金を振る舞い、それを英雄譚のように仕立てる厚顔無恥には、怒りを通り越して唖然とさせられる。

*

 女性キャスターはアステリアとウェストフィリアについて簡単に説明すると、
「昨年十月に海台クラストの採鉱が始まり、ますます社会的関心が高まっているアステリアの海洋開発ですが、いよいよ、来週月曜日、『ウェストフィリア開発公社』が発足しますね」
とロバート・ファーラーに話を振った。
 ファーラーはマイクの前で勿体ぶって咳払いすると、声優のようによく通る声で話し始めた。
「ウェストフィリア開発公社は、自治領政府、ファルコン・マイニング社、ファルコン・スチール社、スタットガス、GPオイル、カメル・コーポなど、大小様々な企業が合同出資して設立されました。またステラマリスの海洋調査会社オーシャン・リサーチと事業提携し、ウェストフィリア島および周辺海域に埋蔵するガス、オイル、鉱物など様々な天然資源の探査を行う予定です。当面は自治領政府の提示する『十ヶ年開発計画』に基づき、陸海両面からの基礎調査、資源量評価、物理探査や生産技術の検証などを行いますが、商業化に向けた準備が整えば企業連合を結成し、全面的に民間企業に委託されることになります。周知の通り、アステリアは、ローランド島のリゾート施設や分譲住宅地を中心に急ピッチで開発が進み、今後ますます資源の自給自足が必要とされます。ウェストフィリアの資源開発に成功すれば、現在、原料調達難にあえぐ現地企業の負担を軽減するばかりでなく、『第二のネンブロット』としてトリヴィア経済を支える大きな基盤となるでしょう。ウェストフィリアは数十年の長きに渡り、そのポテンシャルが注目されてきましたが、具体的な開発計画に着手されることはありませんでした。この度、高まる社会の期待に応え、本格的な資源探査に乗り出せることを悦ばしく感じております」
 まるでウェストフィリアの資源開発に成功すればアステリアにもトリヴィアにもバラ色の未来が開けているかのように、ファーラーはとうとうとその可能性を語る。
 だが話が一段落すると、女性キャスターはすかさず身を乗り出し、
「しかし、現時点で、ウェストフィリア島には船を係留する施設すらなく、通信網も微弱だと聞いています。それについては、どのように対処なさるおつもりですか」
とファーラーのなめらかな口調を遮るように質問した。
 するとファーラーは貴族然とした微笑を浮かべたまま、
「本来、開発の主対象とすべきウェストフィリアに社会基盤が作られなかったのは、既にローレンシア海域に進出している一企業の意向が大きく影響したからだと聞いています。本来、公共に還元されるべきアステリア開発を私物化し、海洋資源を独占して、巨利を貪っているのです」
 その途端、リズの身体が激しくわなないた。
「よくも、ぬけぬけと……。本来、公共事業として支援すべき部分までパパに丸投げし、鉱業権まで妨害して苦しめてきた張本人のくせに」
 だが、ロバート・ファーラーは、マイクの向こうで怒りに胸を震わせる娘のことなど気にも留めない。よどみない口調で今後の展望を語ると、
「我々はウェストフィリアとローランド島を第二の経済特区に定め、ローレンシア島よりはるかに優れた産業基盤を構築することによって、新たな世界の供給基地を成したいと考えています。そうすることで、ネンブロットへの依存を分散し、ニムロデ鉱山周辺で生じている環境問題や労働者の待遇を改善に導くことができるからです」
 ファーラーは加害者としての負い目などおくびにも出さず、耳障りのいい言葉を並べて、環境汚染や労働問題に対する女性キャスターの鋭い追及を巧みに交わす。

*

『海底鉱物資源の採掘は本当に安全なのか?』
 二千字ほどのコラムだが、売り上げナンバーワンの日刊紙『デイリー・エクスプレス』に掲載されていること、寄稿しているのが辛口の社会評論で人気のコラムニストであることからインパクトは大きい。
 氏の主張を要約すれば、「海上プラットフォームを利用した採鉱システムは危険性が高く、廃棄物の流出や海底地形の変化による環境破壊も深刻である」「ステラマリスでは十数年前からすべての海上プラットフォームが操業を停止し、海洋環境の保全に努めている、現在、アステリアで行われている海台クラストの採鉱は、安全性を無視した前時代的な方策と言わざるをえない」――というものだ。
「今更、こんなことを持ち出すなんて」
 採鉱事業部の部長が憤懣やるかたないように言った。
「採鉱プラットフォームは企画の段階から政府の専門機関で設計図や提案書を元に何度も協議が繰り返され、ようやく安全性や経済効果が認められて着工の認可が下りたのですよ。昨年も三度のテスト採鉱で厳しい審査を受け、産業省の技術開発機関から高く評価されて操業に至ったのです。それに海洋汚染というなら、沿岸の工場や居住区から排出される重油や産業廃棄物も同様でしょう。これも海洋安全局が中心となって海水や海底堆積物の調査を進め、浄化技術の研究を推し進めています。でも、知らない人がこの記事を見れば、海上施設でそんな危険な作業が行われているのかと疑念を抱くでしょうね」
「それに記事中程にある『劣悪な労働環境』というのも、あまりな言われようですね」
 採鉱事業部で福利厚生を受け持つ古株の担当者がオンラインでこぼした。
「確かに、通常でも一~二週間、状況によっては一ヶ月近く海上施設に拘束される不便はあるものの、他の海上勤務に比べれば融通は利く方です。アコモデーションズも狭いながらシャワー・トイレ付きの個室ですし、これも従業員の強い要望を取り入れて、ぎりぎりの予算でアレンジしました。食事も、娯楽設備も、貨物船や作業船に比べればはるかに充実していますし、何をもって『劣悪』というのか理解できません。プラットフォームの安全性を問うなら、こんな紙面ではなく、関係者の立ち会いの元、然るべき場所で意見を交わすべきでしょう。このコラムニストも一度も現場を訪れたことがないくせに、どうして危険だと断言できるのか、首をひねりたくなります」

*

 セスが答える前に、彼が口を開き、
「海洋情報ネットワークの構築を手がけています。アステリアにもMRDSのようなシステムを導入したいと準備しているところです」
「ほう、MRDSを?」 
 マイルズが興味をそれたように身を乗り出すと、
「海台クラストの採鉱が本格化して、海底鉱物資源のみならず、ガスや火山噴出物など天然資源への関心が高まっています。それでアステリアにもMRDSに似た情報共有サービスを開設し、海運、観光、製造業など、多方面に役立つ知的インフラを築くのが目的です」
「それはまた壮大だね。MRDSもかなりの規模だが、その他の分野も包括するとなれば数十億単位の予算が必要だろう。すでにトリヴィア政府の認可は取り付けているのかね」
「……いえ」
「そうだろうね。経済特区としてのアステリアはまだスタート地点に立ったばかりだ。政府の本音を言えば、そこまでこの未開の地に金を使いたくはない。下手に力を持たせると、よその宇宙植民地みたいに自治だ、自立だと騒ぎ出すからね」
「自治権を求めるのは当然でしょう。アステリアの共同体も大変な勢いで拡大しています。再来年にも人口が十万を突破しようという区政に自由な意思決定権を与えないのは、逆に不自然ではありませんか」
 彼が熱血らしい口調で答えると、マイルズはコーヒーカップを受け皿に置き、
自治というのは地域の経済基盤と精神的土壌が熟して初めて機能するものだよ。何でもかんでも独立すれば社会が幸福になるというものでもない。現に自治領府の経済的支援が打ち切られたら、ここもたちまち干上がるだろう。意思決定権に制限があるのは、狭い社会で一部の力が突出するのを抑制する意味もある。自治だ、自立だと求める以前に、まずは地域の社会基盤を確たるものにし、良質な帰属意識を育てないと。物事を自由にしたいが為に自治権を求めても上手くいきっこないよ
「それはそうですが……」
「今、ここで君と自治権うんぬんについて議論しても埒があかない、我々もスケジュールが立て込んでいるのでね。まずは採鉱事業の話をしようじゃないか。正しい鉱業活動の在り方を知ることが、君の手がけている情報サービスの役に立つのではないかな」
 マイルズは年輩らしい落ち着きで話題を切り替えると、数枚の資料をテーブルに広げ、海台クラストの本採鉱を受けて鉱業局から立ち入り調査の指示が出た経緯を明快に説明した。
 その上で、現在、採鉱プラットフォームに対する安全性や環境問題が再び疑問視されている点を強調し、
「テスト採鉱で審査に合格したといっても、操業が本格化すればまた新たな問題が生じるものです。海底鉱物資源の採鉱システム自体、我々にとってはまったく未知のものですから、存在が認知され、安全性が証明されるまで厳しい目が向けられるのは致し方ありません。それは鉱業に限らず、航空でも、建設でも同じです」
「その点は理解しています」
 セスは好意的に答えた。
「しかし、現場スタッフからすれば、昨年の三度のテスト採鉱、本採鉱前後の度重なる監査にパスしたのに、更にまだ何を調べるのかという違和感があります。それに何度も調査に入られると、スタッフ自身が懐疑的になる。ご存じのように、こういう仕事は自らの技術への信頼と誇りがなければ成り立ちません。そういう意味でも皆が不安を覚えるのです」
 マイルズは同情しながらも、「我々は指示を受けて調査するのが仕事だからね」と論点をぼかす。
「でも、一部企業やカルテルの意向によって不当に鉱業権を停止されたという噂を聞かないでもないです」
 すかさずヴァルターが口を挟むと、マイルズは苦笑し、
「それもよく言われることだ。会社側にしたら我々は不倶戴天の敵みたいなものだろう。中には鉱業権を停止された鉱山会社が裁判所に不服を申し立て、現在も訴訟が続いているケースもある。だが、実際には、悪質な鉱業活動によって労働者や地域住民に被害が及ぶケースが後を絶たないからね。先月もネンブロットのウレミア鉱区でミネラルサンドの採鉱を行っていた会社が硫化廃棄物の処理過程で基準値を上回る有毒ガスを発生させ、なおかつ従業員の定期検診を怠っていた事例があった。一年前にも同じ理由で指導していたにもかかわらずだ。当然、操業停止処分だよ。世間ではファルコン・グループや金属カルテルの寡占ばかり問題視されているが、法規で決められた処理設備を実際には稼働しない中小の鉱山会社や、比較的監視の緩い鉱区での手抜き操業、届け出のない闇採鉱も目に余るものがある。正当な事由で処罰されたにもかかわらず、それを転嫁したい人が鉱業局の不正を吹聴するケースもあるんじゃないかね」

*

 その時、彼は背後に人の気配を感じ、手すりから離れて振り返った。
 マイルズ調査官だ。
 五十半ばのマイルズは夜の潮風が堪えるのか、カーキ色の厚手のジャケットを羽織り、襟首を立てている。今夜の外気温は十五度、大した寒さでないが、ムーンプールに打ちつける波音が冷気をもよおすのだろう。マイルズは太い首を亀のようにすくませながら、「やあ、君も夜の散歩かね。娯楽室で皆と一緒に飲まないのかね」と聞いた。
 彼が軽く首を振ると、マイルズは彼の隣に並び、黄色い塗料が塗られた手すりから身を乗り出すようにしてムーンプールの奥底を覗き込んだ。
「それにしても、すごい迫力だね。本当にこの下は水深三〇〇〇メートルの海底なのかい?」
「本当です。何一つ遮るものはなく、真っ直ぐ海の底まで続いています」
「まるで宇宙の奈落だね。この年になって、こんなすごいものを目にするとは思わなかった。これまで様々な鉱山を見て回り、全長三〇〇〇メートルの世界最深の坑道にも入ったことがあるが、プラットフォームはまた違った意味で迫力がある。海洋のエネルギーを丸ごと吸い上げるような見事なダイナミズムだ」
 彼が意外そうにマイルズの顔を見ると、マイルズは改めて採鉱システムを見回した。
「ここに来る前、プラットフォームに関するいろんな噂を聞いた。海中に重油や廃棄物を垂れ流しにしているとか、従業員は狭い船室にぎゅうぎゅう詰めにされ、風呂にも入れないとか。採鉱システムは不安定で、作業員は常に命の危険にさらされているとも聞いたが、重機はオペレーションルームで完全制御され、オペレーターはほとんど海に出ることもない。悪天候や非常時には半時間たらずで揚収するそうだね。長さ三〇〇〇メートルを超える鉄のパイプだ」
「二十年以上かけて改良を重ねたシステムです」
「ここに来る前、マクダエル社長と話したよ。ぶしつけなことも聞いてみた。これだけの採鉱システムを莫大な経費をかけて操業して、採鉱量はこの程度なら大した収益にはならないでしょう、と。苦笑しておられたよ。そんなことは三十年前から織込み済みだって」
「そうでしょうね」
じゃあ一体、何が目的で始められたのです? と尋ねると、『そこに可能性が在ったから』。でも、よくよく聞けば事業の話じゃない、人間の可能性のことだ。人間の可能性を開くために何百億の投資を? すると、社長はこう仰った。『事業とは、突き詰めれば人間じゃないか』と。私も長年、様々な経営者や専門家や権威ある人と話をしてきたが、あんな言葉を聞いたのは初めてだ。一瞬、職務を忘れそうになったが、聞くべきことはきっちり聞かせてもらったよ。それで分かったのだが、マクダエル社長はティターン海台以外は採鉱する気がないんだね。三十年かけて掘り尽くしたら、いったん事業を休止して様子を見るかもしれないと仰ってた。まあ、その頃にはこれらの施設も老朽化して、採鉱の継続も困難になるだろうから、当然といえば当然だが」
「それは初めて聞きました」
「海には宇宙規模の価値があるそうだ。海の本当の価値が分かるのは、人類が滅び去ったその後だってね」
 彼は我が耳を疑った。それは初めてアル・マクダエルに会った時、売り言葉に買い言葉で口にした文句ではないか。
「そう、それは君が言ったんだってね。あの方も苦笑いしておられたよ。『この年になってから、あんな言葉で噛み付かれるとは思わなかった』と。それで少し君のことも聞いてみた。真面目で優秀な幹部候補生に見えるのに、なぜ側に置かれないのかと。社長はこう仰ってたよ。『鉄は熱いうちに打てと言う。だが、熱い時に打ち損なった鉄はどうやって矯正すればいいのか。もう一度、激しく叩き直す? それとも使い物にならないと見捨てるか? 一番手っ取り早いのは、もう一度、溶鉱炉にぶち込むことだ。だが人間は鉄ではない。だから自分から変わるのを待っている』と。それもまた気の長い話ですねと言ったら、自分で悟得したものだけが確実だと仰ってた。それだけが真に人間を強くすると
「……」
「賢哲な人だと聞いていたが、ほんの十分ほどの会話で、あそこまで人の精神に触れられる人も希有だね。人間というのは、一つのことにとことん従事すれば、あそこまで高められるものなのかね」
 マイルズは素直に感銘を表すと、今一度、ムーンプールを覗き込み、
「わたしにはただの海水にしか見えないが、見える人には、いろんなものが見えるんだろうね」
「あの……マイルズさん」
「なんだね?」
「ここは本当に大丈夫なんですか。鉱床情報を隠しているとか、安全性を無視しているとか、新聞やメディアで批判され、周りは必ずしも好意的ではありません。理事長に何かあったら家族が責任を追及されたり、プラットフォームの管理者が処罰されるのではないかと、いろいろ気掛かりで……」
「それは事業者次第だよ。法規に従えば問題はないし、破れば即座に責任を問われる、車の運転と一緒だ。交通ルールに従って運転する限り、むやみに処罰はされない。たとえ派手に電飾した大型トラックでもね」
「鉱業権も?」
「もちろん」
「それならいいんです。前に、鉱業局も大きな勢力とグルになって、ライバル企業を潰しにかかるという噂を耳にしたものですから」
要は、MIGが正義で、ファルコン・マイニング社は悪だと言いたいのだろう
「いえ、そんなつもりは……」
「誤魔化すことはないさ。君の立場からすれば、そう感じるのが自然だ。マイニング社にも社会的意義があり、鉱業活動を維持する真っ当な理由があるといっても、君は納得しないだろう。もっとも、それは君に限らず、世間一般に共通の感情だ。あそこまで企業イメージを損ねては、今更立派な理念を唱えたところで誰も信用しない。それについては、マイニング社の自業自得と言えるだろう。ところで、君はネンブロットを訪れたことがあるかね?」
「いえ」
「そうか。機会があるなら一度行ってみるといい。飛行機からもはっきり見て取れる巨大な露天掘りの跡を見れば、文明の本質がよく分かる」
「それほど大規模な鉱山が?」
掘って、掘って、掘り返して、まだまだいろんなものが出てくるだろうね。惑星全体が鉱脈みたいな所だ。あと二世紀、三世紀と、鉱物資源の世界的供給地として役割を果たすだろう。人間の文明は『石』から始まったというが、今もearth(地)を土台に成り立っている点は変わらない。機械、建物、道路、ありとあらゆるものがネンブロットの鉱物から作られている。我々はまさに大地を食い尽くす貪欲な蟻だよ
「あなたはどうして鉱業局を希望されたのですか?」
「社会科の自由研究の延長だ。小学校の時にネンブロットの鉱山をテーマに選んだ。学期末の宿題でね。資料が集めやすいと思ったんだ。しょっちゅうニュースで流れているから」
「予想通りでした?」
「子供の研究発表としては上出来だったよ。鉱山労働者の健康問題に関するニュース記事を切り抜いて、社会正義を叫ぶだけで、教師は満点をくれた。両親も大喜びだ。だが現実はまったく違っていた。初めてネンブロットを訪れたのは高校生の時だ。家族旅行で北極近くにある氷のホテルを訪れた。あのエリアでは氷原の地下を掘って鉱物を採掘している。周辺の熱エネルギーを利用して宿泊施設を運営しているんだ。私も家族も大満足で、小学校の自由研究のことなどすっかり忘れていたよ。だが、いよいよ帰りの日が近づいて、父親に『他に回ってみたい所はないか』と聞かれた。その時、ふと思い出したんだ。ニムロイド鉱床の中で最も過酷と言われるヴォラク坑道のことを。そこは特に高濃度のニムロディウムが産出することで知られている。だが、地中の奥深くまで達するので通常の重機は入れない。人の手で掘り返している。まるで装甲みたいなマシンを使ってね。環境に問題はない。空気は清浄で、水も新鮮なものが絶えず補給されている。だが、長時間、何年も、二〇キロ近いマシンを担いで岩盤を掘り続ければどうなるか、君にも分かるだろう? 彼らの仕事は長く続かない。そして辞めた後も健康障害は続く。マイニング社は言う。常に坑内の環境には留意し、従業員には検診も受けさせていると。だが、きれいな空気を吸い、きれいな水を与えられても、代わりにマシンを担いでくれる人間はない。肩が痺れ、手先が震えても、稼ぐために掘り続けなければならない。そしてマイニング社も坑道を閉鎖するつもりはない。世界中がそれを必要としているからだ。世間は鉱山労働者を守れと声高々に叫ぶ。だが一方で、ニムロディウムを使った製品も欲しい。矛盾というなら、世界そのものが矛盾だよ。君だってマイニング社に疑問を感じながらも、パソコンは使うだろう。性能の良い新製品が出れば、楽しみに買いに走るはずだ。そこにヴォラク坑道で採掘されたニムロディウムが使われていたとしても、そんなことまで気に留めない。一時期、義憤は覚えても、やはり便利な生活を取る
「確かに……」
罪深いというなら、我々みんなが罪深い。皆が求めるから、マイニング社も存在し続ける。鉱業局に入ったのは、そういう動機からだ。小学生の正義感では到底解決し得ない問題と正面から向き合ってみたかった。誰だって自分は正義の側だと信じたい。自分は物事を正しく理解し、正しい感性を持っていると。だが、ネンブロットの平原に立てば、みな同じだ。あそこを見れば、どんな正義の叫びも空しく感じる。『だって、お前もここで採掘されたものを土台に暮らしているじゃないか』。わたしは今でもその答えを探している。何が正しくて、何が救いになるか。わたし一人が答えを見出したところで、世界は少しも変わらないかもしれない。だが考える。真実の答えを探求する。その為だけに存在する人生があってもいいのではないかね? 勝ちも負けもない。ひたすら探し求める人生だ。君がどんな青春を歩んできたかは知らないが、こうと決め付けるには早過ぎるんじゃないかね
「正しいことが報われなくても?」
だから言ったろう。ネンブロットの平原に立てば、みな同じだと。今、君は自分の正義が報われなかったように感じている。だが、正義とは報われる為にあるものか? 行動するためにあるのだろう
 彼の脳裏に、風雨の中、堤防を守りに戻った父の姿が浮かんだ。あの時、父は自分の正義が報われるかどうかなど考えもしなかっただろう。ただ行動しただけだ。息子に自身の生き様や哲学を示すために。
 マイルズは薄くなった頭髪を掻きながら、
「わたしは自分の人生において一つだけ深く後悔していることがある。それは目の前の問題ばかりに集中して、後に続く者のことはあまり気に掛けなかったことだ。その点、マクダエル社長は幸せな人だね。人を育てる喜びも知っている。あの人の目から見れば、君は『打ち損なった鉄』のようだが、今に分かるんじゃないかね、あの人が君を呼び寄せた訳が。それじゃあ、そろそろ失礼するよ。明日は午前八時から調査再開だ。まったく慌ただしいことだ」


Product Notes

文中に登場する PER ASPERA AD ASTRA もしくは AD ASTRA PER ASPERA は、「ラテン語名句小辞典」によると

人生の多くの困難を克服し、大きな名誉を獲得し、神々の側に列せられること。セネカ『狂えるヘラクレス』では、ヘラクレスの妻メガラがヘラクレスについてnon est ad astra mollis e terris via 「大地から天への道は緩やかではない(険しい)と言っている。なお、見出し句は、米国カンザス州のモットーとなっている。

同様の名句『PER ARDUA AD ASTRA』(艱難を経て星へ)は、英国空軍のモットーです。

Royal Air Force (RAF)
イギリス 王立軍

per_aspera_ad_astra
Photo : http://fav.me/d5wh1ww

『商人と屏風は曲がらなければ立たない』という諺があります。「正直なだけでは商売として成り立たない」という現実的な視点で語られた言葉です。私がこの諺を知ったのは、故・伊丹十三監督のヒット作『スーパーの女』がきっかけ。
客に誠実なスーパー『正直屋』において、徹底した合理化、現実主義で経営を推し進め、「リパックも商売の知恵だ」と主張する役員に対し、主人公の花子(宮本信子)が、「商売と屏風は曲がらねば立たぬ。これが、このスーパーのテーマソングみたいね」と反論する場面です。
それはリパックに限らず、何でもそう。世の中には『必要悪』という都合のいい言葉があって、実際、その通りなのかもしれないけれど、十年後、二十年後の、企業の質(=製品)を見てごらん、って話です。
ちなみに1990年半ば、私の周りの主婦はダイエー消滅を予言していました。特に生鮮食品がサイアクで、駅前の大型店舗も閑古鳥だったのです。その二百メートル先に、ちょっと割高だけども、産地直送の新鮮な野菜や果物を扱う小さなスーパーがオープンした途端、買い物客が殺到。ものの見事にダイエーの店頭から主婦が消えて、非常に興味深かったです。ちなみに、私が利用していたダイエーの食材宅配サービスも、野菜、肉、何もかも、劣悪でした。
食品の鮮度だけが理由ではないけれど、流通がどう、合理化がどう、と、大看板を立てたところで、主婦が何を求めているか、理解してないところに客は来ないでしょう。主婦に嫌われるということは、国民の半分(=消費者)を失うことでもありますしね。
何にせよ、技術と庶民感覚のない会社に未来は無い。
庶民というのは、社会を根底で支える、物言わぬ善良な人々です。

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