曙光 Morgenrood

第1章 運命と意思

-オランダ人船長-

海洋情報部と庶民の良心 情報行政とデータ共有を考える

Introduction

息子の学費と生活費を得る為、アンヌ=マリーは心ならずもマルセイユの実業家、ジャン・ラクロワ氏と再婚する。だが、その事実は、亡父を思うヴァルターの心を深く傷つける。洪水の後から悪夢にうなされ、クリニックも受診するが一向によくならない。ラクロワ邸の暮らしは豪奢で快適だが、生活が華やげば華やぐほど、亡父への思慕はつのった。
  そんな折り、ラクロワ氏の口から「無責任な父親」という言葉が飛び出し、ヴァルターはひどく混乱する。苦しみから逃れようと彼が手にしたのは、白い粉薬の『清涼剤』だった。だが、その為に、思わぬトラブルに巻き込まれてしまう。
継父であるラクロワ氏との関係も悪化し、突発的に家出した彼の目に飛び込んできたのは、商船学校の広告だった。

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Quote

 一週間後、 アンヌ=マリーはジャン・ラクロワの言葉が上辺だけでないことを知った。
 マルセイユでも一、二を争う名門私立学校から案内状が届いたのだ。それに併せて、高台にあるメンタル・クリニックの予約券も添えられている。学校はともかく、一度、受診が必要なのは確かだ。
 ヴァルターは嫌がったが、「夜、少しでもぐっすり眠れるように」と説得し、一度限りの約束で受診した。
 クリニックは真新しい住宅街のど真ん中にあった。外観も内装も高級オフィスのように洗練され、心を病んだ人が通う医療施設にはとても見えない。ドクターも上品な中年の女医で、半時間ほどカウンセリングすると、数種類の錠剤を処方してくれた。
「よくなるのでしょうか?」
 アンヌ=マリーが不安を浮かべると、女医は声を潜めて「時間がかかります」と答えた。
あの子の場合、未だにTVの映像が生々しく瞼に浮かぶそうです。決壊した堤防や水没した干拓地の光景です。父親が高波に呑まれる夢も繰り返し見ると言ってました。父親の後ろ姿を必死に引き留めようとするけれど、その声は届かず、あっという間に波に呑まれて、藻掻き苦しむのです。そうかと思えば、父親がライン川の向こうから手を振りながら戻ってきて、『心配かけたね、ヴァルター。もう大丈夫だよ』と抱きしめてくれる。『やっぱり父さんが死んだなんて嘘だ、俺のところに戻ってきてくれた』と幸せいっぱいに父親の胸に顔をうずめるけれど、朝が来たら何もかも幻のように掻き消え、その度に自分も死にたくなるそうです。それ以外にも、サッカー、自転車、音楽など、父親を連想するものを目にしただけで、所構わず涙があふれ、級友にからかわれたことも一度や二度ではないと。でも、お母さんに心配かけまいと、家でも学校でも張り詰めたように暮らしているのでしょう。顔半分が歪んだように見えるのも、そうした緊張の表れです。天災や交通事故、目の前で人が殺されるなど、ショッキングな体験が引き金となり、鬱、自責、悪夢など、何年、何十年と苦しむ人も少なくありません。これといった治療法はなく、記憶を消し去る事も出来ませんが、根気よくケアすれば苦痛を和らげることはできます。ただ、一朝一夕に改善することは期待なさらないでください

  

*

 ラクロワ氏の話はそれなりに面白かった。政治経済に限らず、スポーツでも文化でも一見識もっていて、聞けば何でも教えてくれる。口調も丁寧で、相手が子供だからといって省略したり、誤魔化すこともない。時には、価値観が引っ繰り返るような裏事情も聞かされるが、それも社会の現実と思えば非常に興味深い。
 だが、父のように一から十まで共感することはない。その価値観はどこまでも実際的で、時に辛辣だ。
 何でも使用人に頼むのは気が引けると言えば、  
「何を躊躇うことがあるんだね。使用人はそれを生業としている。君がそれを肩代わりすることは、彼らから仕事を奪うことになるんだよ。使用人は奴隷じゃない。れっきとした職業だ。彼らは生きる為に君の服を洗い、コップを洗い、バスルームを掃除する。何もかも納得の上で労働契約しているんだ。躊躇は、かえって彼らに失礼だよ」
 それも分かるが、彼が知りたいのは生業うんぬんではなく、人としてどうかという点だ。
 ラクロワ氏のように社会的に成功し、分刻みのスケジュールで生活する大人が使用人を雇うのは理解できるが、彼はまだ子供だ。父は「十歳になったら、自分の使った食器ぐらい自分で洗わないと駄目だ」と皿洗いをさせたし、「土曜の朝は家族で掃除」と決まっていて、彼も自室と二階のバスルームが担当だった。それもずいぶん面倒だったが、バスタブを磨くうち、工夫や忍耐、思いやりも身についた。使用人に身の回りの世話をしてもらうのは簡単だが、どこか人としての感覚がずれていくような気がしてならない。そのなれの果てが、エクス=アン=プロヴァンスの阿呆面の従兄だ。「その分勉強に打ち込んで、社会に役立つ人間になれば、大勢に還元される」とラクロワ氏は言うが、そうなる前に自分の価値観が歪んでしまいそうで怖い。
 激変したのは暮らしだけではない。社会的立場も同様だ。
 今では買い物といえば高級デパートで、専属の役員があれやこれやと最上級の商品を見せてくれる。父とスポーツショップに出掛けた時、「これ、いいね」と手に取ってみたものの、値札を見るとびっくりするほど高価で、そーっと商品棚に戻していたのが嘘みたいだ。ヴァルター・ラクロワになってから自分で財布を開いた試しは一度としてなく、レジではラクロワ氏のメインオフィスの名称を言えばよかった。
 サッカー観戦もVIP席で、時には有名選手が挨拶に訪れることもある。かつてシュテファン・マイアー選手を間近に見て、口をぽかんとさせていた田舎者も、今ではスポンサーの御曹司として有名選手の方からおべっかを使うほどだ。
 そうかと思えば、週末はプライベートジェットでアイスランドやノルウェーに連れて行ってくれる。泊まりは五つ星ホテルのスイートルームで、レストランでは値段を気にせず何を注文してもよかった。
 だが、裕福であればあるほど彼は違和感を感じ、上辺だけの人生を生きているような気持ちになる。ラクロワ氏が父とは違った明達の士であるのも理解できるが、その言葉は少しも心に響かない。
「道理のわからぬ者に理屈を言って聞かせようなどと思わぬことだ。彼らはやがて君を敵とみなすようになる。それより本音は胸の奥に隠し、実になる部分だけで付き合うことだ。この世で賢人と言われる人はみなそうしている」
「世の中というのは、一割の利口者がそうではない九割から金や時間を奪って儲ける場所だ。それが嫌なら、楽しむ側より楽しませる側に立つことだ」
「良いことも正しいことも、ほどほどにすることだ。徹すると、善行も毒になる」
 理屈としては解るが、永遠の真理とも思えない。それはあくまで処世に過ぎず、仁慈や気高さとは別ではないか。

 それに対して、父の教えは春の日差しのように胸にしみた。
「学校でも、サッカークラブでも、納得いかないことはたくさんあるだろう。人の悪意に触れて愕然とすることもあるはずだ。でも、そんな時は、心の中でこう唱えるんだ。『父よ、彼らをお許し下さい。彼らは自分が何をしているのか、わかっていないのです』――これは十字架にかけられたイエス・キリストが彼を侮辱する人々に対して言った言葉だ。君をいじめる子供たちも、今は自分たちがしていることの意味を分からずにやっている。もしかしたら、一生理解せずに終わるかもしれない。それでも赦すんだ。相手を赦すことが君の心も救う。だから君も辛く悔しく感じた時は、この言葉を胸に唱えてごらん。真の心の強さがどういうものか、きっと分かってくる」
 もし、サッカークラブの子供たちが父とラクロワ氏の言葉を聞いたら、子供たちは父の周りに集まるだろう。
 一見、損で遠回りに見えても、父の教えは身体の真ん中でしっかり心を支えてくれる。
 どうして父の教えから離れて生きていけるだろう。

 

*

 プライベートジェットの中で、彼は軽く夕食を済ますと、疲れた身体をシートに横たえ、うつらうつらした。身体は鉛のように重いのに、神経は冴え、なかなか眠りに就くことができない。何度か寝返りを打ち、ようやく気が遠のきかけた時、彼が寝入ったと勘違いしたジャン・ラクロワがワイングラスを傾けながらぽつりと言った。
「なかなか気難しい子だね。わたしもいろいろ気遣っているが、どうしたら心を開いてくれるのか。君の息子だから、もっと素直で明るいと思っていた」
「素直で明るい子なのよ。今も父親の死から立ち直れず、心が塞いでいるけれど、本当は太陽みたいに溌剌としてるのよ。ただ、何かにつけて時間がかかるの。心を開くのも、新しい環境に馴染むのも。どうか長い目で見てやって」
 だが、ジャン・ラクロワは納得がいかぬようにワインを口にすると、
「君の前の夫は、少々甘やかし過ぎたんじゃないか」
と耳を疑うような事を口にした。
「いつもべったりくっついて、子供に闘うことを教えなかった。優しさだけで生きていけるはずがないのに」
 だが、もっと耳を疑ったのは、それに続く母の言葉だ。
「そういう部分もあったかもしれない。でも、この子は幼い頃から特別なの。誰かがいつも気を付けて見てないと、心が閉じてしまうのよ。だから、あの人がいつも側に付いて、手取り足取り教えてきたの。自分の愉しみも後回しにして、辛抱強く癇癪にも耐えて……」
「だが、世間ではそういうのを『甘やかし』と言うんだよ。手取り足取り世話した結果がこれだ。いつまでも赤ん坊みたいに背を丸めて、ろくに話もしない。何をするにも助けが要る子供と知っていて、どうして置いていったりしたんだ。父親として無責任じゃないか」
「誰も自分が洪水で死ぬなんて考えないわ」
「そうかね。聞いた話じゃ、堤防は決壊寸前で、避難勧告が出ていたというじゃないか。そうと分かって現場に戻るなんて、とても賢明とは思えんがね」
 ジャン・ラクロワが侮蔑するように言うと、母も押し黙り、彼も毛布の端を握りしめた。
 甘やかし。
 無責任。
 思ってもみなかった言葉に、頭の中がガンガン鳴り響く。
 そして、なぜ母は強く言い返さないのか。
 喧嘩してでも「父が正しい」と主張しないのか。
 家に帰ってからも彼は塞ぎ込み、何かにつけて母に突っかかった。

 

Product Notes

災害といえば、すぐに「復興」「再建」という話になりますが、陥没した道路は重機ですぐに直せても、人間の心はそう簡単には癒やせません。愛する人をなくした悲しみは十年経っても、二十年経っても変わらないし、ましてその死が自然でなければ、いつまでも苦悶するのが当たり前です。
家や道路の修復はともかく、心の中まで自分にむち打つように再建する必要はないし、悲しいものは悲しいまま、いつまでも心が晴れないなら晴れないなりに、それが当たり前と受け止めて、無理なく生きていけばいいと思うんですよ。
何も経験してない人間は、「もう五年経ったのに」とか「いつまで引きずるのか」みたいな事を平気で言いますけど、家を建て直したぐらいで元に戻るなら、この世に医者も神父も要らないのです。
悲しむ自分を否定しないで下さい。
いつまでも悲しく、苦しくて、当たり前なのです。

Marseille

マルセイユというと、映画『トランスポーター』のイメージです。名画『フレンチコネクション』でもマルセイユの麻薬ルートが描かれていましたが、地中海最大の港町だけに、まあいろいろとございます。多分。

写真で見ると、非常に綺麗な町なのですが。マルセイユは石鹸が有名ですね。

マルセイユ 石けん

マルセイユ

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