2018/06/05 改訂版 「親を捨てよ 家を出よう」「大学には行った方がいいの?」「好きなことをして生きるは正解か」を追記

人生は私を失望させはしなかった ニーチェ『悦ばしき知識』より

人生は私を失望させはしなかった ニーチェ『悦ばしき知識』より

社会が斜陽に向かい、人々の心が不安定になると、ニーチェがよく読まれる……という話を聞いたことがある。

どんな人も、景気のいい時は絶望や空しさなど感じもしないけれど(とりわけ若い人は)、社会から勢いや明るさが消え失せ、暗雲立ちこめると、不安になるし、疑心暗鬼にもなる。それまで信じていた方法も、理念も、信条も、全て嘘みたいに感じて、意欲も希望もなくしてしまうのは誰しものことだろう。

そんな中、”偉大なる肯定者”ニーチェの言葉が求められるのも納得がいく。

自分や世界への肯定なくして、人は生きられないから。

人生の半ばにおいて(In media vita)。

いな! 人生は私を失望させはしなかった!

それどころか、私には、歳を重ねるにつれて人生は一そう豊かな、一そう好ましい、いよいよ神秘に充ちたものに感じられる。

それは、あの偉大な解放者が、つまり、人生は認識者にとって1個の実験でありうる――

義務でもなく・宿命でもなく・虚妄でもなくして――というあの思想が、私に訪れたあの日以来のことだ!

そして、認識そのものは、よしそれが他の人たちにとっては たとえば安楽椅子だとか・安楽椅子まで辿り着く道だとか・慰みごとだとか・無為無精だとかいった何か別なものであるとしても――

私にとって認識そのものは、英雄的感情でさえ そこをそれ自身の舞踏場とし 戦場とすることのできる危険と勝利との世界なのだ。

人生は認識の一手段なり

この原則を抱擁するわれわれは、ただに勇猛であるだけでなく、悦ばしく生き 悦ばしく笑うことすらできるのだ!

何はさておきまずもって戦闘と勝利の道に通暁する者でなければ、そもそも誰が一体良く笑い良く生きるすべを解しえようぞ!

ニーチェ全集〈8〉悦ばしき知識 (ちくま学芸文庫)

『認識の一手段なり』の意味するところは、前述の「1個の実験でありうる」より続く言葉。

要するに、人生の究極の目的は、幸せになったり、成功したり、『目に見えて優れる』ということではなく、自分が何の為に生き、何ゆえにこの人生があるのか、実感できることだと思う。

たとえば、苦悩から抜け出す。

何かを克服する。

自分の役割を知る。

生き甲斐を得る。

自分の置かれている状況がどのようでも構わない。

行為や社会との関係を通して、自分なりに大事な何かを悟得できたなら、またそれゆえに魂の高揚を覚えたなら、それは立派に生き抜いたと言えるのではないだろうか。

ニーチェの『認識』とは、仏教でいうところの『悟道』や『悟入』に相当すると思う。

何も知らずに生まれて、怒りや嫉妬で苦しんで、それらの痛苦がどこから生じるかといえば「無知」だもの。

ニーチェの言うところの認識、あるいは通暁によって、突然、心の目が開け、物の道理が理解できたなら、その瞬間から、人は余計な苦悶や嫉妬から解放され、安楽に感じる。世間目にはなんら優れなくても、心の中は清明とするならば、それに優る魂の幸福はないように思うのだ。

生きるチャンスを得ても、何も分からず、気付きもせず、苦しい、苦しいと世を恨みながら死んでいく人も少なくない。

大した人生でなくても、明鏡止水の心境にたどり着けたら、悦ばしく生きたと言えるのではないだろうか。

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ニーチェの名言もたくさんあるが、上記はトップ3に入る好きな言葉。

初めて読んだのは30歳頃だったが、あの時も、今も、『人生は私を失望させはしなかった』のフレーズが好き。

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