自動翻訳と訳意と語学力

自動翻訳と訳意と語学力

どんな言語も100%正確に翻訳することはできない。
そこには必ず訳者の意図が存在するし、一言違えば、まったくニュアンスも異なるものだ。
たとえば、『風と共に去りぬ』の有名な一節、Tomorrow is another day.
直訳すれば、「明日は別の日」だが、こんな愚かな翻訳をする訳者は一人としてないだろう。
となると、「明日に望みを託して(映画字幕)」「明日は明日の日が昇るのだから(文学的)」等々。それに近いニュアンスの和訳を当てなくてはならない。
中には、字幕翻訳で有名な戸田奈津子さんの『君の瞳に乾杯(Here’s looking at you, kid)=映画カサブランカの名台詞』のように、後々まで議論の対象となる名訳・珍訳・超訳も存在する。それはそれで意義深いものだし、そうした体験をきっかけに他言語への理解を深めるのも一興だ。

いずれ自動翻訳の機能も著しく向上し、翻訳も通訳も要らなくなる……といった声もあるが、それは非常に危険な考え方だろう。

「コーヒーでも飲みに行くかい?」「いいとも、いつものスターバックスだね」みたいな会話ならともかく、国家機密の公文書、数億ドルが動く契約書、個人の財産や権利に絡む保証書の類いになれば、些細な翻訳ミスが命取りになる。ずっと以前、国際会議の同時通訳を担当する女性通訳者が、ある外交官の発言を誤って伝えた為に国家間の対立を引き起こし、陰謀に巻き込まれるといった映画があったように記憶するが、それも決して誇張ではなく、和平に向けて「協調する」のと「協力する」は似て非なるものだ。そのあたり、軽く扱うと、一方は「足並みを揃える」と考えるが、一方は「全面協力」と受け取り、その後の対処も大きく違ってくる。このあたりの命運を握っているのは、間に入る訳者の語学力や見識であり、100%正確に訳したからといって、必ずしも良い結果を招くとは限らない。同じ日本人同士でも、社長の大言を、部下がマイルドに言い換えて、「今年は大胆に攻めるという意味でして、ハイ……」みたいにフォローするぐらいなのだから。

結局、自動翻訳の誤りを見抜くのも、本人の語学力に他ならない。

まさかGoogleのはじき出した訳文を鵜呑みにする人もなかろうし、将来的にも、鵜呑みにするのは非常に危険であると思われる。(コーヒーでも飲みに行く? みたいな会話は別として)

そう考えれば、この分野は、機械の発達と同じくらい、人間の能力の向上も要求されるわけで、たとえGoogleスピーカーが同時通訳するレベルになっても、人は相変わらずプロの翻訳者に内容を確認し、高価で大事な仕事は「人に依頼する」というスタイルが確定しそうな気もする。ある程度は機械翻訳で手助けできたとしても。

神は人間の奢り高ぶりを抑制する為に、個々の言語を分かち、意思の疎通を図れないようにした。

その呪縛から解放されることは、多分、永遠にない。

人類が一つの共通語で完全に結ばれるまでは。

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