プチ・マリーの行方(ベルサイユのばらに寄せて)

プチ・マリーの行方(ベルサイユのばらに寄せて)

 最近、コッポラ監督の「マリー・アントワネット」が封切られたり、帝国劇場で涼風真夜さんのミュージカルが上演されたりして、ちょっとしたマリー・アントワネット・ブームになっている。
 他にも名の知れた女王はたくさん存在するのに、どうしてマリー・アントワネットだけが、こうも度々、ブームとなって、私たちの前に現れるのだろう。たいした偉業もなく、ドレスや宝石が大好きな平々凡々とした一人の女に過ぎないのに、その生涯は、多くの人々をとらえて離さないのだろう。
 私は、時折、こう考えることがある。
 もし、マリーの生涯が、「彼女はロココの女王として栄耀栄華を極め、優しい夫や可愛い子供に囲まれながら、平和で裕福な一生を終えました」というものなら、人々は、かえって落ち着かなくなるのではないか、と。
 その無責任で贅沢三昧な暮らしの果てに、『破滅』という道徳的なオチがあるから、人は納得し、その生涯をもっと知りたいと思うのではないだろうか。
 私も、マリーのように、「贅沢三昧」とまではいかないけれど、自分の為だけに全てを注ぎ込んでいた時があった。
 持てる時間もお金も、書籍やオーディオ、ファッション、飲食、旅行、インテリアといった、自分の趣味や楽しみの為だけに費やし、まさに自分の世界の中だけで完結して生きているような状態である。
 しかし、姉が結婚して、子育てがいよいよ大変になってきた頃から、私は、そういう「自分の為だけの人生」に疑いを持つようになっていた。自分のお金も時間も、持てるもの全てを、自分の為だけに使うような生き方をしていたら、いつか罰が当たるのではないか――という気持ちである。
 確かに、この人生は、自分を生かす為にある。
 それが自分で汗して得たものである限り、何をどのように使おうと、個人の自由だし、「自分磨き」とか「人生の充実」とか、志があってのことなら、それはむしろ徳の部類に入るのかもしれない。
 が、しかし、自分だけを完成させたところで、果たして幸せだろうか。
 自分だけが美しい孔雀になって羽ばたいたところで、それが世界にとって、どれほどの意味があるというのだろう。
 そんな思いが積み重なって、いつしか、私は、『自分の為だけに生きたくない。この有り余る力を、誰かに注ぎながら生きたい』と願うようになっていた。
 自分を肥やすことばかりに夢中だったプチ・マリーは、自分の為だけに消費される人生に畏れを感じ、対極の価値観に思いを馳せるようになったのである。
 人は誰でも「愛されたい」という欲求と同じくらい「愛したい」という欲求も持っている。
 どんな魂の奥底にも、こんこんと湧き出る愛の泉があり、その一滴が、別の魂に注ぎ込み、心が潤うような悦びを与えてはじめて、人は己の存在意義を知るし、自分というものが真に尊敬に値する人間であることを実感できるのである。  
 対象は誰でもいい。
 家族、友人、恋人、恩師、同僚――通りすがりの人にさえ、人は自由に愛を注ぐことができる。
 「愛されたい」という欲求が、極めて限られた中で働くのに対し、「愛したい」という欲求は、無限に広がる可能性なのである。
 しかし、その対象を見失い、愛し方を学ばずにいると、愛の泉はせき止められ、魂の輝きは澱んでしまう。
 誰をも愛さず、誰をも幸せにせず、自分一人の完結した世界の中に住んでいると、生きている実感も、自分に対する尊敬の念も失せてしまうのである。
 マリーは多くの人間にかしずかれ、自分から誰かの為にケーキを焼いたり、窓を磨いたり、足腰の弱ったおばあさんを支えてあげたり……といった行為とはまったく無縁に、生活の隅から隅まで、最高の尊敬を払われてきた。
 しかし、与えられるばかりで、自ら与えるチャンスが無いというのは、一見、楽なようで、実は心の地獄なのではないだろうか。
 せき止められた欲求は、身体の奥底でぐつぐつと煮詰まり、何をも為さない一分一秒の重みに耐えられなくなってゆく。自分でも自分という人間の価値が分からないまま、敬意と賞賛だけはたっぷり受けられるとしたら、いずれそれ自体にも飽き飽きして、真に重んじるべきものも見失ってしまうだろう。
 派手に遊び歩いたマリーも、「ルイ16世と真の夫婦として結ばれ、子供が生まれてからは落ち着いた」と言われているが、事実その通りだったのだろうと思う。
 王妃様ともあろうものが、夜中も二時間ごとに起き出して、泣き叫ぶ赤ん坊をあやし、母乳を与える苦労を味わったかどうかは知らないが、自分を抑えることも、他人に媚びへつらう術も知らない、「大胆不敵な臣下」たちが、彼女のドレスの裾にまとわりつき、朝に、夕に、「あれして、これして、ママ!」と騒ぎ立てる生活は、誰をも愛するチャンスのなかったマリーにとって、この上ない悦びだったはずだ。
 さらに足元に目を向ければ、何十万という飢えた人々が、救済の手を待っていた。
 その魂の一つ一つを救済して回ることはできなくても、とりあえず、今日の空腹を何とかしてあげることは十分可能だったはずだ。そして、その権利と力をこそ、神に与えられたのではなかっただろうか。
 身内の幸せだけにとどまらず、ほんの少し、視線を外に向けるだけで、彼女の目の前には、さらに豊かで、尊敬すべき人生が開けていたのに、この歴史的チャンスを、彼女は棒に振ってしまった。
 その富と栄華は、彼女自身の幸福の為だけに費やされてしまった。
 彼女の人生に待ち受けていた道徳的オチは、私たちに、利己的に生きることの罪深さを再認識させてくれるのである。
 さて、現代に目を向け、地球規模で見れば、私たちもまたベルサイユの住人である。
 高価なドレスに身を包み、平和な庭園を散策しながら、「近頃の世間は物騒でございますわね」と囁き合う王侯貴族と変わりはない。
 夜な夜な絢爛豪華なお祭り騒ぎに浸ったとて、魂が真に欲するものを得られるわけではないことは、当人が一番よく分かっていることではないだろうか。

「愛」とは、魂の実感であり、満足ではない。
 

この投稿は2007年~2008年にかけて”優月まり”のペンネームで『ベルばらKidsぷらざ』に連載していた時の未提出の原稿です。
『ベルばらKidsぷらざ 東欧ベルばら漫談』の一覧はこちら
   

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