傘 ・一人の旅立ち【短編】
 家出の支度に傘は必要ないだろう。無理にバッグに詰め込んでも荷物になるだけだし、雨に打たれたぐらいで死ぬわけでもない。新しい住まいは駅からバスで十分。本数も多く、夜遅くまで運行している。たとえ雨に降られても、どこかで購入すればいい。宇部町も有名大学のキャンパスが新設されてから見違えるように発展した。町も清潔で、若者向けの商業施設も多い。
 農場で住み込みで働くと両親に告げた時、「あんな田舎」と眉をひそめたが、一也に後悔はない。事情を知らない者は野良仕事のように見下すが、昨今の農業は先端技術の見本市だ。トマト一つ育てるにも高度な知識とIT技術が要る。
 荷造りを終え、キャリーバッグのファスナーを締めると、戸口に視線を感じた。妹の舞だ。この春、公立高校に進学し、今はインスタグラムに夢中になっている。趣味も気性も水と油ほど異なり、膝をつき合わせて話すこともないが、彼と両親の間に埋めようのない溝があることは感じ取っているらしい。彼が宇部町に引っ越すと告げた時も、「ふぅん」と一言返しただけだった。
 彼が今一度ファスナーの閉まり具合を確認すると、「ホントに出て行くんだ」と舞は冷めた口調で言った。
「お兄ちゃんはなんだかんだで、ここに居ると思ってたけど」
「なんだかんだって、どういう意味」 
「なんだかんだよ」
 舞は長い前髪を無造作に掻き上げると、フーセンガムをぱちんとやった。ガムを噛むと小顔になるとかで、一日中、くちゃくちゃやっている。
「お前、朝からいい加減にしろよ」
「なんで」
「みっともない」
「そういうところが、お父さんにそっくり。だから上手くいかないんだね。お互い似過ぎて」
 一也が渋い顔でファスナーを締め直すと、舞は再びガムをぱちんとやった。
「もう帰らないの?」
「別々に暮らすだけだ。永久に縁切りするわけじゃない」
「でも、お父さんもお母さんもそう思ってるよ。結構、一方的に決めたんだってね」
「そう言ってたのか」
「そんな風に聞こえた」
一也が答えずにいると、舞は再び前髪を掻き上げ、「これから私があの人たちのお守りをするのかぁ。なんだか、ユウウツ」と唇を尖らせた。
「お前は上手くやってるじゃないか」
「あたしはお兄ちゃんみたいにストレートに顔に出さないだけ。こう見えても、いろいろ我慢してんのよ。あたしだって学校がなければ、お兄ちゃんみたいにするよ」
「じゃあ、そうしろよ」
「親がいつまでも元気ならね」
 舞の言葉はちくりと刺したが、今さら引き返す気もない。一也は立ち上がると、「バスの時間だから、行くよ」とキャリーバッグを構えた。サッカーの遠征で父に買ってもらった時、将来、こんな目的で使うとは夢にも思わなかった。唯一の救いは、金属バットで殴る事態にはならなかったことだ。憎いわけではないが、離れて暮らした方がいい。そんな親子もあっていいはずだ。
 一也がキャリーバッグを引き摺って、部屋を出ようとすると、
「傘を持っていかないの? いつもの折りたたみ傘。クローゼットの隅に置きっぱなし」
 舞が母親みたいな口調で言った。
「雨が降ったら、どこかで買うから必要ない」
「でも、人生、何があるか分からないよ」
「ませた口を利く」
「本気で心配してんの。お兄ちゃんは何でも一人で出来るつもりでいるけど、それも親の住む家に居るからでしょ。それが無くなったら、事情も変わると思うけど」
「お前にとやかく言われる筋合いはないよ」
 彼はそれだけ言うと、足早に家を出た。
しかし、バス停に着き、空模様を見ていると、舞の心配もあながち無用と思えなくなった。傘など何所でも買える気持ちでいるが、もし、どこにも売ってなかったら……。
 その時、「お兄ちゃん」と呼ぶ声がし、振り向くと、舞が小走りでやって来た。手には折りたたみ傘を持っている。
「やっぱり、持って行った方がいいよ」
 舞が心配そうに差し出すと、彼も黙って受け取った。
 やがてバスが到着すると、舞に励まされ、最初の一歩を踏み出した。
一本の折りたたみ傘に守られながら。

その他の短編

Amazon Kindle 電子書籍

sanmarie*comに掲載していた【「親 死んでほしい」「親 殺したい」で検索する人が多いので】の電子書籍です。心理学者・河合隼雄の名著『家族関係を考える』で紹介された『内面的な親殺し』と、父親殺しを描いたギリシャ悲劇『オイディプス』の物語をベースに、なぜ「親 死ね」「親 殺したい」といった感情が芽生えるのか、乗り越えるには何が必要か、分かりやすく解説しています。
作品詳細と冒頭部の無料サンプルはこちら。https://novella.one/oya-book

詩と引用カテゴリの最新記事

Top