物書きにも指針は必要
「小説書きたいな」「ブログやろうかな」と考えている人にとって、一番重要なのは、「自分はどうなりたいのか」という目標設定ではないでしょうか。
何となく憧れで始めて、そこそこにウケたとしても、「何となく始めたもの」は「何となく」以上のものにはなりません。
たとえブロガーを目指すにしても、「自分は何を伝えたいのか」「最終的にどうなりたいのか」という明確なビジョンがなければ、中途半端に終わってしまいます。
特に昨今の検索エンジンは、新人ブロガーが瞬く間に上位を取れるほど甘くはないですし、日常の出来事や時事コラム(その時々のニュースに対する感想や意見など)を綴ったぐらいで注目を集めることもありません。その程度なら、わざわざあなたのブログを読みに行かなくても、同程度の書き手はごまんと存在するからです。
それでも、「やろう」、「これについて書きたい」という人が生き残る世界であって、気軽に発信できるのは本当でも、ある程度、アクセスを集めることができる人、何年も続けられる人は、ごく一部なんですね。
それに、多くの人はいちいち口に出して言いませんけど、陰でものすごく努力しているものです。
表ではヘラっとして、ゆるいキャラクターを演じているだけ。
実は、朝から晩まで、ブログ記事について考えたり、ネタ探ししたり、実際に現地に足を運んだり、小遣いの大半を資料の購入にあてたり、注入するエネルギーが半端ないです。
学校でもよくいるでしょう。
周りに妬まれたくないから、「勉強してない」「興味ない」と、駄目人間を装いながら、しれっと有名大学に合格したり、一流企業に就職するヤツ。(私の知人にもおりました。「期末試験の勉強? 明日からかなぁ・・」→日頃、猛勉強してるので、期末試験ごときで焦らない。「毎日、いっぱいマンガ読んでる(*^_^*)」→マンガ以外は勉強。TVの前でぼーっとしたり、友だちと遊び歩いたりしない)
彼等の言うことを真に受けて、「よし、俺もゆるく生きるぞ」なんて怠けてたら、確実に落ちこぼれますよ。
ある意味、彼等は本当に頭がいいから、周りに合わせて、アホの振りができるのです。
だから、今も、昔も、本当に一角のものになりたければ、死に物狂いで努力するしかない。
昨日今日の思い付きで、プロ野球の選手になったり、一夜漬けで東大に合格することなど、まずないのです。
ただ、その努力の方法も、昨今は手段が多様化して、昔みたいに捻りハチマキしなくても、効率よくできるようになった、というだけ。
立志や研鑽で差が付くのは、現代も同じです。
たとえば、昔は海外旅行に行くのも一苦労でしたが、今は自分で現地の情報を収集して、ホテルも、飛行機も、PC一台で予約を完了することができます。
勝海舟の時代に比べれば、現代の海外旅行なんて、超楽勝でしょう。
そして、その利便を、「ゆるくても生きられる」「努力なと必要ない」と言ってるだけで、今も昔も、海外旅行に情報収集は必須だし、たとえインターネットでも、きちんと調べるとなれば、それ相応の手間と知識が必要です。詐欺(デマ)か、合法かを見分ける能力はもちろん、海外ホテルの公式サイトや観光情報を読みこなす語学力も不可欠です。
PC一台で予約できる時代だからといって、「どこか素敵な所に行きたいな~」と夢に描いているだけでは、何所にも行けないんですね。
まず、自分は何所に行きたいのか。
何の為に旅をするのか。
目的地に出掛けるには、何が必要で、どこから情報を得ればいいのか。
こうした道筋を明確にする必要があります。
そして、その通りに、条件をクリアして初めて、憧れのマチュピチュに行けるわけですね。
物書きも、これと同じ。
自分はどのレベルを目指すのか。
何をテーマにし、誰に伝えるのか。
上手に伝えるには、どんなスキルを身に付ければいいのか。
始める前に、ある程度の道筋は考えないといけません。
何も考えずに、自分の言いたいことや、感じたことを、漠然と書き綴っても、他人の心には響かないからです。
結局、アクセスも取れず、ファンも付かず……となれば、長続きはしないですよね。
海外旅行と同じく、現代は、HTMLやCSSを知らなくても、誰でも気軽にアカウントを開設して、一行でも発信できる時代です。
特に、不満や批判、ワルグチの類いを書けば、他者の共感も得やすいでしょう。
でも、その程度の書き手なら、この世にごまんといて、わざわざ、あなたの書いたものを読みに行かなくても、検索→クリックで、いくらでも同レベルの読み物を楽しむことができます。
そこで差別化を図って、自分なりに読者を獲得するとなれば、やはりそれなりの努力はしないといけない。
自分が書きたいことを、つらつら書き綴っていたら、あっという間に人だかりが出来て、一夜で人気者に ! というほど、甘いものじゃないんですね。特に、現代のインターネットは。小魚100万匹が、検索結果の上位10位を狙って、激しく食い合う超レッドオーシャンです。
始める時点で、将来は決まっている
そこで、真っ先に問いかけて欲しいのが、「自分はどのレベルを目指すか」です。
ここでいう『レベル』とは、「トップスターになりたい」「人気者になりたい」という属性ではなく、品質の問題です。
グラスに喩えれば、量販店の300円レベルでいいのか、バカラ(Baccart)の最高級を目指すのか、という話です。
たとえば、歌やダンスが好きでも、宝塚大歌劇場のトップスターになれるのは、タカラジェンヌ・ワナビーの千人に一人か、万人に一人でしょう。
どれほどレッスンに通っても、宝塚音楽学校に入学することさえ叶わない人もいます。
だからといって、トップスターにもなれず、宝塚音楽学校にも入学できなかった人は皆、負け組なのでしょうか。
不合格者の中には、ダンスは苦手だけど、声楽は完璧という人もいます。
ダンスも声楽も素晴らしいけれど、宝塚の求める資質とは異なる人もあります。(宝塚より劇団四季に向いている)
また、宝塚音楽学校に合格しなくても、「○○先生の教室に3年通った」というだけで箔が付くケースもありますし、第二志望の音大で才能が花開く人もあります。
カラオケハウスで漫然と歌っている人より、トップスターを目指して、死に物狂いで努力した人の方が、歌もダンスも格段に上手く、道が開けるのは言うまでもないですね。
物書きもそれと同じ。
最初の段階で、どのレベルまで到達したいのか、自分自身に宣言しなければなりません。
小説なら、素人の投稿レベルでいいのか、世界の名作レベルを目指すか、です。
人気者になれるかどうかは、あくまで最終結果であって、努力自体に可も不可もないんですね。
実際、勉強もせず、見直しもせず、漫然とやってる人より、「どうすれば、読む人に楽しんでもらえるか」「オリジナリティを創出するか」、あれこれ試みながら取り組んでいる人の方が、ブログでも、SNSでも、大きな差が付くものです。
Instagramでも、一枚アップする為に、何百と試し撮りしたり、カメラ講座に通っている人もありますからね。
何につけ、一番大事なのは、「自分はどのレベルを目指すのか」という立志で、何も考えず、調べもせず、漫然とやっている人は、その程度にしかなりません。
後述にもあるように、その道のプロを目指して、日々、練習に励むのと、「この程度でいいや」という手抜きで踊るのでは、登り口からして違うのですよ。
それは能力以前の問題で、始める時点の決意で、将来も違ってくるのです。
詩や小説にしても、最高の品質を目指すのと、「この程度でいいや」と適当にやっている人とでは、注ぎ込むリソースも勉強量も違います。
夢が叶うかどうかは最終的な結果であって、漫然とやってる人と、最高品質を目指して努力してきた人とでは、文章力も構成力も違うし、仕事や学業に活かして、高収入やポジションを得ている人も少なくないと思いますよ。
「夢が叶うなら努力する、叶わないなら努力しない」というのは、単なる言い訳に過ぎません。
そうした不安や迷いも含めて、自己研鑽に励むのが、ワナビーのあるべき姿だと思います。
(頑張らない方がいい、というのは、ある時期に死ぬほど努力した人が、躓き、立ち止まった時に、初めて自分に問いかけることであって、最初から何も努力する気のない人が口にする言葉ではありません)
最後に、漫画家の池田理代子氏のインタビュー記事を紹介します。
漫画家のキャリアに終止符を打ち、47歳で、音大に合格された事にまつわるエピソードです。
登山口が違う プロとアマチュア
1996年 読売新聞に掲載
- 趣味の延長では成長限界 芸術は厳しい鍛練と勉強 -
十年間、趣味でクラシックの声楽を勉強してきた。
音楽大学への受験を決めたのは二年前。何とかめでたくこの春から東京音楽大学音楽部声楽専攻の学生になることができた。
私の年齢を考えれば、もうただそれだけで"快挙"ということになるのだろうが、祝福の声に混じって、
「歌なんて、わざわざ大学へ行って勉強しなければいけないものなのか? ただ好きで歌うというだけじゃいけないのか?」という疑問の声もあった。
そう問われれば、やっと専門的勉強の世界に爪先をちょいと踏み入れたに過ぎない私は、ただ「うーむ」と絶句するしかないのだった。
もう一つの趣味である日本舞踊は、いちおう藤間流の名取である。
名取ではあっても師範ではないのだから、こちらの方は、れっきとしたアマチュアである。とはいえ、本人はいつの日か師範にまで至ることを目指してそこそこは真面目にお稽古に励んできたつもりであった。
「筋がいいですよ」とか、「舞姿がお師匠さんに似ている」とか言われ、着々と腕をあげていると自分では思い込んでいたのであるが、はっきりいうとそういった形容の前には括弧つきで【アマチュアとしては】という言葉が厳然として入るのであった。
というのも或る日のこと、私と稽古仲間の友人は目のあたりにしてしまったのである。
私達にはついぞきつい顔や言葉を向けられたことのない美しく柔和な師匠が、舞台を目前にしたある若手の弟子に、厳しくも凄みのある叱咤をなさっているのを。
彼女は、若手とはいえ今年新人賞をとったこの道のプロである。
「何のつもりなの、その踊りは!」と言われて、リハーサルの舞台からもう一度師匠の稽古場へ引っ張っていかれた彼女を見ていて、目から鱗が落ちる思いだった。
同時に、押しも押されもせぬプロとしての師と弟子の姿に、全身が粟立つほどの感動に打たれた。
同じことを学んでいても、プロとアマチュアでは始めから登る山が違うのだ、と実感せざるを得なかった。
アマチュアとは、決してある山の途中まで登ってきている者を指すわけではない。
本当に、登山口もまったく別なのだ。
私は、十年間趣味として声楽を学んできて、そして今、登りかけていたひとつの山を一旦下り、新たに別な山に登り直そうとしているのである。
学生というのは依然アマチュアには違いないのだが、それは、プロの道に至る登山口に一歩を踏み入れたアマチュアである。
優れた歌手の歌う声が、何故あれほどにまで人の心を打つのかといえば、ただひとつの音、ただひとつの言葉の発音にも、厳しい全身の鍛練と長い歳月の勉強があるからである。
歌ばかりではない。
踊りであれ、楽器であれ、文章であれ、絵であれ、およそ"芸術"の域にまで達することのできるものはすべて同様だ。
もちろん、それが"芸術"の名にふさわしいものになり得るかどうかには、本人の内面の豊かさやインスピレーション、表現力などといったものが究極は問題になるのだろう。
しかし、それらを支えるものは、まず厳しい鍛練と長い歳月の勉強である。
それに耐えて自分に向き合う絶対的孤独の時間が、すべてを決めると言っても過言ではない。
学校に入るというのは、言ってみれば出来上がったメソッドの中に自分を投げ込むということで、本当は最も手っ取りばやい道なのかもしれない。
大学を出たその後の、生涯にわたる勉強がプロへの道であることは言うまでもない。
恐らく、多くの人は、「自分なんかが、宝塚のトップスターなど、恐れ多い」と、遠慮の気持ちで(あるいは傷つきたくない一心で)、最初から目標設定を低くして、予防線を張るのでしょうけど、若い人ほど、遠慮は無用ですよ。イチローみたいに、小学生の気持ちのまま、最初の10年だけでも、ひたすら努力すればいいのです。
もう少し頑張るか、ここで諦めるかは、壁にぶち当たった時に初めて考えればいいのであって、上記の通り、10年間、学んだことは、決して無駄にはなりません。
物書きでも、何も学ぶ気がない人と、それなりに質量をこなしてきた人とでは、二次試験の小論文も、業務レポートも、歴然とした差がありますよ (^-^) → お仕事ゲット。