2018/06/05 改訂版 「親を捨てよ 家を出よう」「大学には行った方がいいの?」「好きなことをして生きるは正解か」を追記

第4節 三男アリョーシャ 鷹揚さと生きやすさ 聖痴愚に関する注釈

第4節 三男アリョーシャ 鷹揚さと生きやすさ 聖痴愚に関する注釈

生まれた時から放置され、従僕に預けられたり、四度も住まいを変えたり、子供らしい幸福な思い出が皆無な長男ドミートリィ、大事に養育されるが他家の世話になっている引け目から気むずかしい性格になる次男イワンと異なり、アリョーシャだけは優しい生母の記憶を宿らせ、周りから愛されて真っ直ぐに育つ。

作中にも、「自分がだれの世話になっているかなどということには、まったく気を使わないほうで(27P)」「兄のイワンが、大学生活の最初の二年間、自分で働いて食べていく貧乏生活を送り、ほんの幼い時分から、時分は恩人の家で他人のパンを食べて生きているのだと、痛切に感じていたのと比べると、その点、アリョーシャはまったく正反対であった」とあるように、生来の天真爛漫な性質だったのだろう。

こと金銭やブルジョア的清廉さにかけてはいたって口やかましいピョートル・ミウーソフが、後にもうアレクセイと昵懇になってから、彼について次のような警句を吐いたことがある。

「この男は、たぶん世界に類のないたった一人の人間かもしれん。人口百万の見ず知らずの大都会の広場に、いきなり一門なしでほうり出されても、ぜったいに飢えや寒さで行き倒れたり死んだりはしない。なぜって、すぐにも人が食べものをくれたり、職を世話したりしてくれるだろうし、もし世話してもらえなくても、たちまち時分で職を見つけてしまうだろうからね。しかも、彼にとっては、それがひとつも苦にならないし、屈辱でもない。一方、世話するほうでも、それがすこしも面倒でなく、ひょっとしたら、むしろそれを満足に思うかもしれない」

次男イワンと決定的に違うのは、「それがひとつも苦にならないし、屈辱でもない」という点。

一つ一つを「施し」「お情け」と感じ、自己卑下に陥ってしまったイワンの繊細な性格とはあまりに違う。

言い換えれば、アリョーシャには、この現世を生きるに必要な鷹揚さが備わっていたということだろう。

他人の施しに預かるには、イワンはあまりに繊細で、同時に誇り高い人でもあった。

作中でも、アリョーシャ=聖痴愚(ユロージヴイ)といった描写があるが、世間的にはちょっと抜けたようなところがアリョーシャには幸いしたのだろう。

ちなみに、『聖痴愚(ユロージヴイ)』とは、江川氏の注訳によると以下の通り。

本来は苦行層の一種、信仰のために肉親や世間とのつながりを絶ち、常識、礼儀、羞恥心をさえわきまえぬ凶人や痴愚をよそおって、権威や世の思惑に媚びぬ真実の神の言葉を説いた者をこう呼んだ。

新約コリント前書第四章十節に「われらはキリストによりて愚かなる者(ユロード)なり」ちあるのが典拠とされている。

六世紀ころからビザンチン教会ではこの聖痴愚の存在が記録されているが、これがとくに数多く現れたのは中世ロシア(14-16世紀以降)であって、彼らは民衆の苦しみと悲鳴のいつわらざる表現者となることができた。

時代が降ると、教会によって認められぬ「偽ユーロジヴイ」も排出し、奇矯の振舞で衆目を集めようとするが、他方、いくぶん神がかった凶人や白痴をこの名で呼ぶようにもなった。スメルジャコフの母親「いやな臭いのリザヴェータ」もその一人で、女性の場合には語尾が「ユロージヴァヤ」と変化する。

イメージ的には、リヤ王に登場する道化師――愚か者を装って、君主に忠告したり、真実を言い当てたりする――、それよりもっと意図的で、浮世離れした存在といったところ。いやな臭いのリザヴェータのように、本人の意思にかかわらず、周りが聖なるものと見なして、大事に扱う場合もあるけれども。貧しき者、病める者に神が宿る、といった考えは、仏教にも近いものがある。

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