2018/06/05 改訂版 「親を捨てよ 家を出よう」「大学には行った方がいいの?」「好きなことをして生きるは正解か」を追記

第五編 第三節-2 イワン・生への渇望

第五編 第三節-2 イワン・生への渇望
いったいこの世界に、ぼくの内部のこの狂おしいばかりの、おそらくはあさましいまでの生への渇望をたたきつぶせるほどの絶望があるものだろうかってね、そして、どうやらそんな絶望はないらしいと結論を出してしまったんだ。といっても、やはりこれも三十歳までの話で、それを過ぎたらもうそんな意欲も起きなくなるだろうがね、

この生への渇望は、そこらの肺病やみのモラリストどもから、とりわけ詩人連中から、よくあさましいものと呼ばれている。

ところで、こいつはカラマーゾフ的な特質でね、だれがなんと言おうとこれは確かさ、こいつはおまえの中にもちゃんとひそんでいるよ、しかし、どうしてそれがあさましいんだい?

ぼくは生きたい、だから論理に逆らってでも生きるんだ。

たとえぼくが事物の秩序を信じていないとしても、ぼくには春に目を出すあの粘っこい若葉が貴重なんだ、青い空が貴重なんだ、どうかすると、どこがどうというのじゃなく、ふっと好きになってしまう人間がいるね、そういう人間が貴重なんだ、それから、人間の成し遂げるある種の偉業もぼくには貴重なんだよ。(293P~294P)

「春に芽を出すあの粘っこい若葉」というのは、江川氏の注釈によると、プーシキンの詩『吹く風はまだ冷たくて』に出てくる言葉。かぐわしい蜜の庵から飛び立った蜜蜂が、花々にたずねてまわる。「ちぢれ髪の白樺に、粘っこい若葉が芽を吹いて、みざくらがかぐわしい花を咲かすのは、もう間近なのか」と。

みざくらとは、桜桃(おうとう)の別名。

この生への渇望は、そこらの肺病やみのモラリストどもから、とりわけ詩人連中から、よくあさましいものと呼ばれている

これはドストエフスキーの本音だろう。

ここで語られる「生への渇望」は、「あれが欲しい、こんな風に思われたい」という物欲や野心の類いではなく、ニーチェの生の哲学に似たものと思う。地に足を付けて、現実と向かい合い、悲哀も苦悩も含めて生を悦ぶ。これが生だったのか、それならよし、もう一度!の心境。

こうした考え方は、天上的な美や善徳を尊ぶ人から見れば、図太く、自惚れに感じるかもしれない。文壇でも合わなかっただろう。

ぼくは生きたい、論理に逆らってでも生きるんだ

論理というのは、キリスト教をはじめ、世で常識とされる決まりや価値観、伝統、もろもろ。政治も含まれる。

論理に逆らってでも生きるのは背徳ではなく、矛盾や反論を乗り越えても生き延びる、という意味。

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