2018/06/05 改訂版 「親を捨てよ 家を出よう」「大学には行った方がいいの?」「好きなことをして生きるは正解か」を追記

閑談1『カラマーゾフの兄弟』執筆の背景

閑談1『カラマーゾフの兄弟』執筆の背景

これは私の所感だけど、『カラマーゾフの兄弟』を読む時は、「流れのある大河ドラマ」として捉えるよりも、「連続した短編」と見た方が分かりやすい。
大元のプロットは存在するが、信心のうすい婦人の打ち明け話が入ったり、ゾシマ長老の思い出語りが入ったり、その都度、流れが中断するからだ。

『流れ』を追おうとすれば、必ず混乱すると思う。原卓也版を読んでいた時みたいに。

それよりは「連続した短編」として、一つ一つの節をじっくり味わった方が分かりやすい。

何故かと言えば、祥伝社新書のドストエフスキーの伝記に次のような記述がある。

ドストエフスキーは、1878年7月初めに家族とともにスターラヤ・ルーサの家に落ち着き、従来の習慣や日課を取り戻すと、『カラマーゾフの兄弟』に取りかかった。少なくともこれだけは確かな事実である。筆の進みは速いだろうとドストエフスキーは思っていた。

ただし、それは体調を考慮しなければの話だった。七月十八日に重い発作が起こり、ドストエフスキーは一週間にわたって作業を中断せざるを得なかった。

それに加えて、「悪魔のような西側勢力」に対する根深い反感も創作の邪魔をした。西側諸国は、露土戦争でロシアが得るはずだったものをベルリン会議で奪ってしまった。おまけにイデオロギー上の敵もいた。敵に鉄槌を下すことは以前より難しくなっていた。『作家の日記』を廃刊して依頼、自分の論壇を失い、毎月敵に一矢報いることができなくなったからである。

1879年5月10日、ドストエフスキーはスターラヤ・ルーサから『ロシア報知』の編集長ニコライ・リュビーモフに送った前例の書簡の中で、検閲を恐れて言葉を換える必要はない、とわざわざ先回りして伝えている。根拠として、ドストエフスキーは検問委員会が問題にしなかった新聞記事の原文を示している。しかし、検閲委員会がイワン・カラマーゾフの発言に衝撃を受ける可能性は十分あった。

話が長くなっていたが、これは原稿料を見積もりより多く稼ぐために頁数を増やしているのではない。そのことをドストエフスキーはニコライ・リュビーモフきちんと説明しなければならないと思った。確かに、話の結末が知りたければ購読期間を延長するしかない、ということになれば読者にとって不都合だ。しかし、第九編「予審」はどうしても必要だ。

年内に連載が始まった小説は十二月号で終わらなければならない、という文学雑誌の監修など、ドストエフスキーは歯牙にもかけなかった。ドストエフスキーの立場は強かったからだ。

いずれにせよ、この第十編を予定通り十二月初めに引き渡すことはdけいなかった。理由は例の如くである。ドストエフスキーは病み、疲労し、発想力を失っていた。しかしそれだけではなく、今やドストエフスキーにとってこの小説は「小説の中でも最も重要な小説の一つ」だった。この作品は「入念に仕上げなければならない」。さもなければ、「作家としての自分自身を未来永劫にわたって傷つけることになる」とドストエフスキーは書いている。

父親殺しと三兄弟の運命が物語の根幹ではあるけれど、自分でも書いているうちに、「あれも、これも」と主旨が膨らみ、とにかく全部入れないことには気が済まなくなったのだろう。

一方、体力や政情が付いていかないところもあって、文字通り、四苦八苦の連載であったと想像する。

一気に書いたのはその通りだけども、一節書いては放心し、また気概を蓄え……の繰り返し。

「連続した短編」というのは、そういう意味。

ゾシマ長老の回顧や婦人の回顧などは、それ一つで短編に匹敵するし、自分でも予期せぬエピソードはあったと思う。

最後にドストエフスキーの言葉。

今はカラマーゾフという重荷を背負っている。この小説を書き上げ、玉のように磨かなければならない。私はこの難しくて危うい仕事に精力を費やすことになるだろう。私の運命はこの小説にかかっている。名を挙げることができるが、さもなくば、もはや希望はない。

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