戯曲『星の王子さま』(寺山修司)現実社会で星はいかに輝くか

戯曲『星の王子さま』(寺山修司)現実社会で星はいかに輝くか

戯曲「星の王子さま」について

人はいつ「おとな」になるのだろう。

大人と子供の境目は何なのか。

誰がそれを決めるのか。

考えたら、大人と子供の定義など、いい加減なものである。

ある人から見れば、「あいつはまだまだ子供」だし、別の人から見れば、「子供とは思えぬしっかり者」だったりする。

しかし、総じて『子供』という定義にはどこか侮蔑するような響きがあり、いい年になって「子供みたい」と称されるのは決して褒め言葉ではない。

子供は遊びの天才とか、純粋で汚れないと持ち上げても、現実社会においては決して美徳ではないことを大人自身が宣言しているのだ。

にもかかわらず、子供の純粋や柔軟性を美化して語りたがるのは何故だろう。

そして、大人は、なぜ子供の純粋や柔軟性に批判されなければならないのだろう。

戯曲『星の王子さま』は、寺山修司の「初期作品」の一つに数えられ、『毛皮のマリー』や『血は立ったまま眠っている』といった同時期の代表作と一緒に文庫本に収録されている。

「何百万の星のどれかに咲いているたった一輪の花をながめるだけでしあわせだ」とサン・テクジュペリの星の王子さまは言っている。だが「見えないものを見る」という哲学が、「見えるものを見ない」ことによって幸福論の猪口をつなごうとしているのだとしたら、私たちは「見てしまった」多くの歴史と、どのようにかかわらなければならないのだろうか。

という書き出しから始まる戯曲『星の王子さま』のノートを読めば、星を見上げて夢見るような、おとな子供を揶揄する演劇か、はたまた、夢を忘れた大人たちへの警告か……と感じるが、ここに綴られているのは、きわめて現実的な話。世の中を変えてきたのは星の王子さまではなく、ある時点から、現実と向かい合い、夢や現実の狭間で悩み苦しんだ大人であるという、一つの達観である。

星の王子さまの大人になってしまった無残な姿はあちこちに見出される。そしてこうした「星の王子さま」を捨ててきた人たち、「見えるものを見えてしまった」人たちが、もっとも深く現実原則と心的な力との葛藤になやみながら歴史を変えてゆく力になってゆくのである。

「私はこの戯曲で復讐をしたいと思った。「星の王子さま」にではなく、「星の王子さま」を愛読した私自身の少年時代に、である。私は、今やパオパブの木に棲む一人である。そして、夜になると出て行って、花を食べるヒツジになる。

果たして、星の王子さまは、大人社会とは相容れない存在なのか。

いつ、私たちは、星の王子さまと別れを告げればいいのか。

一つ一つの台詞を見ていこう。
引用については、多少、台詞を省略しています。

物語は、とあるホテルの一室から始まる。

舞台中央に大時代がかった天体望遠鏡。そして額にはサン・テクジュペリの「星の王子さま」の肖像。擬古典的で装飾過多の西洋の売春宿を思わせる。<中略>そして室内なのに星が出ている。一目で作りものだとわかるが、中に豆電球がついている。

主人公は無邪気な女の子、点子。

彼女が「パパ」と呼ぶのは、男装した女性である。

二人は旅行案内所の情報を頼りに、このホテルに泊まりに来たのだ。

パパ
シリウスを一つ、失敬してやったぞ。おまえにも一つ、とってやろうか? 北斗七星がいいかい? それとも、さそり座の心臓がいいかい?
点子
いりません。あたし、星なんてきらい!
パパ
でも、きれいだよ。光っている。壜の中に一つだけ入れて枕許においておくと、じぶんだけの天文学が楽しめる。

ここは純粋に台詞がきれい。「じぶんだけの天文学」という発想がいい。

さて、この部屋には書架から大きな天体望遠鏡が突き出ていて、書架がドアになっている。
ドアの向こうでは、女主人のウワバミ(ゾウをのみこんだ大蛇のボア)が天体を望遠している。

ウワバミいわく、”昼だって星は見える。あたしは「何百万の星のどれかに咲いている、たった一輪の花をながめるだけで、しあわせ」なんだもの

何を見ているのか?という点子の問いかけに対し、

ウワバミ
二十八年前に、さそり座の前で行方不明になった星! 学者に軌道を推理してもらったら、二十八年周期だっていうの。そろそろ帰ってくるところじゃないかと思ってこうして見張っているんだけど、
点子
帰ってきたらどうするの?
ウワバミ
とっつかまえて、この部屋に吊してやるつもり!
点子
まあ、この部屋の星は、みんなおばさんがつかまえた星なのね。
ウワバミ
一人で迷い込んできたのもあるわ! まだとどけてない新星もあるし。あたしだって ぜんぶの星とのつきあいがあるってわけじゃないもの
点子
でも、この星がぜんぶ、星座表にのっているわけでもないでしょう。
ウワバミ
星座表に? むろん、のってるわ。のみすけの星もあれば、地理学者の星もある。点燈夫の星だって、ちゃんと出ている。
点子
……
ウワバミ
ときどき、勝手に軌道を変えてあたしから逃げようとする星もあるけど、ぜんぶ、箒で叩き落としてやるってことにしているんだ。

サン・テクジュペリの星の王子さまでも、王様、実業家、うぬぼれや、学者など、いろんな星の住人を訪れるが、地球のこの町にも、いろんな星が存在する。
それを掴まえて、部屋に吊しているウワバミは、いわば、子供時代の証人だ。サン・テクジュペリの星の王子さまに登場するウワバミは、ゾウを丸呑みするが、大人はその絵を「帽子」と言い張り、正しく認識することはない。いわば、ウワバミは、子供時代の象徴であり、大人が子供の頃、どんな感性や夢を有していたか知り尽くしている。

大人になって、子供時代とは異なる何ものかになると、多くの人はその頃のことをすっかり忘れてしまうが、ウワバミはいつも大人を見張っていて、子供時代を裏切った者たちをコレクションにしている。たまに、過ちに気付いて、そこから逃げだそうとしても、ウワバミは箒で叩き落とし、慚愧の部屋に連れ戻してしまうのだ。

さて、このホテルにはもう一人、「ヒツジ」という使用人が住んでいる。

サン・テクジュペリの星の王子さまでは、小さな星に生えている草を片っ端から食べてしまう。それは巨大な樹木バオバブから星の破壊から救ってくれるが、同時に、大事な一輪の花も食べてしまうかもしれない。善とも悪ともいえない、真ん中の存在だ。

使用人のヒツジは、宿帳の代わりに、パパに「ヒツジの絵を描く」ことを要求する。これは本家・星の王子さまと飛行機乗りの出会いのエピソードだ。

場面はかわって、星の王子さまの変装をしたウワバミと点子が向かい合う。

ウワバミは、点子に「星の王子さまと仰い!」と要求し、点子は気圧されて「似ています」と応える。

ウワバミ
あたしはこうして、昼のあいだは星を眺めつづけていて、夜になると「星の王子さま」に化けるの。女学校の宿舎に入っていた頃から、ズーッと同じ日課よ。
点子
どうして、一日中星ばっかり見ているんですか?
ウワバミ
星には花が、咲いているからよ。「何百万の星のどれかに咲いているただ一輪の花をながめるだけでしあわせだ」って、王子さまが言ってるわ。あたしは、一日中その花をながめていられるだけで、もう何もいらないの。でも、ヒツジが花を食べると、星という星がみんな消えてしまう。だから、あんたもヒツジには油断しちゃ駄目よ。

寺山修司のウワバミが言うと、有名なフレーズもまったく違うニュアンスになる。
現実的に考えれば、普通に考えたら、「何百万の星のどれかに咲いているただ一輪の花を眺めるだけでしあわせ」に感じる人間などお目出度いし、それだけで感じられる『しあわせ』とは一体どの程度のものなのか、首をひねりたくなるだろう。

サン・テクジュペリの星の王子さまは確かに美しいが、それは物語の中だけで美しさを放つ台詞であり、きわめて現実的な考えをすれば、到底受け入れられぬものだ。なぜって、私達は現実に寝たり、食べたり、働いたり、生きていく為に多くのお金や物質を必要とする。一輪の花で手に入るしあわせなど、たかが知れているし、そんな憧れで誤魔化せるほど、現実の人生はたやすくない。

星の王子さまの格好をしたウワバミは尚も続ける。

ウワバミ
あたしは、あの本を女学校一年生の一学期のときに読んだの。それから、あの本とお友だちになった。何べんも何べんも読んでいるうちに、あの本の中の「ぼく」というのに嫉妬を感じるようになって、もしあの本の中の「ぼく」というのがなかったら、あたしがそのかわりに「星の王子さま」のお友達になれるなじゃいか、って思ったのね。それで、ハサミで、本の中から「ぼく」という名をぜんぶ切り取ってしまった。でも、どうやったら「星の王子さま」と話しができるのか、わからなかった。あたしは、本の中に入ってゆく方法を知らなかったのよ。さあ着せてあげるわ。星の王子さまの意匠。あなたにも、これを着る資格がある。
点子
資格って?
ウワバミ
あの本をよんだ人なら、誰でも星の王子さまになることができるのよ。
点子
星の王子さまって何歳なの?
ウワバミ
さあね、本にも年のことは書いていなかった……幸福になろうとする子は、年のことなんか考えずに、花だけ見ていればいいんだから

「幸福になろうとする子は、年のことなんか考えずに、花だけ見ていればいい」というのは確かにその通り。
現実を知れば、誰でも多少なりショックを受けるし、「真面目に努力するだけ馬鹿馬鹿しい」「こんな世界、滅びてしまえ」と極端な方向に走る人もあるだろう。
サン・テクジュペリの星の王子さまの言う通りにすると、精神的には高次に辿り着くが、現実には融通の利かない、世間知らずな大人になる危険性がある。いわゆる「子供っぽい」と揶揄されるタイプだ。それだけ読んでいると、素晴らしい教えに感じるが、現実社会の法則はまた別で、そのギャップをどう乗り越えるか……といったところまでは言及されていないのである。

いわば、サン・テクジュペリの星の王子さまは「真理」の世界で、現実を生きる大人たちが必要とするのは「処世」なのだ。

点子
星の王子さま、って大人になったら、やっぱり背広着て、よれよれのワイシャツ着て、満員電車に乗って会社に出て行くの?
ウワバミ
会社になんか、いかないよ。星の王子さまがすんでいるのは、じぶんのからだよりほんの一寸だけしか大きくない星だもの。会社なんか、あるもんですか!
点子
じゃあ、オフロなんかないのね……でも、いつもからだの汚れている王子さまなんて、あたしは、いや!
ウワバミ
心! 心! からだが汚れてたって、花さえ美しければ、それでいいんですよ

「からだが汚れてたって、花さえ美しければ、それでいい」というのは本当だろうか。おそらく、多くの人が「否」というだろう。
心も大事だが外見も大事、現実的に考えれば、そんなものはきれい事と分かる。

ウワバミ
目をとじてごらんなさい……面白いものが見えるから。
点子
面白いものって?
ウワバミ
象をのみこんだウワバミ。とっても残酷な心の影絵。
点子
象をのみこんだウワバミ? どこに? <中略> 何も見えないわ……ただ、まっくらなだけ!
ウワバミ
見ようとしないからよ。地理と算数と文法しか勉強しなかったからよ(ナワをぐいとしめあげる)
点子
あっ、痛っ!
ウワバミ
さあ、その椅子があなたの星よ。もうどこにも逃げ出せない。一歩さきは、宇宙のまっくら闇! <中略> あなたみたいに遠くの星の花が見えない子には小さな椅子の星が似合っているんだ……これから、そこにじっとしてあたしの訊くことに返事をして頂戴!

ウワバミは「見えないものを、見たことがある?」と点子を拷問し、痛みにたまりかねて、点子は「とってもきれいな星……天の川……キラキラと」と答える。
ウワバミは哄笑し、舞台が暗転する。

点子は使用人のヒツジに助けられ、「あのおばさん(ウワバミ)、アタマが少しおかしいんじゃない?あんなにキレイゴトにばかり、世の中のことを考えるなんて」と口を尖らせる。

ヒツジ
純粋すぎるのよ……大人になるチャンスを失ったのよ……すみれの花の手淫常習者、天文学のもの狂い、東京のどこかにまだほんとに「星の王子さま」がかくれていて、ヒツジに花を食い荒らされないように、守っていると信じている女、おなべの底のナベネズミで、かなしい女の一生を、かいてもかいてもかいきれぬ、聖なる処女のなれの果て!
点子
そういうあなたは、何者なの? あたしを助けて下さったあなたは一体、誰なの?
ヒツジ
あたしは、ただの狂言まわし。これからあなたに、地獄を見せてあげましょう。

そこに王様の星、そろばんの星、うぬぼれの星、地理学者の星、のみすけの星が現れて、「地獄の星の王子さま!」とふっかける。
ますます点子はパニックに陥る。

その後、パパは女性に戻り、点燈夫と絡み合い、暗闇に落ちていく。

パパを探し回る点子は再びウワバミと再会し、パパの真相を聞かされる。

ウワバミ
あんたのパパは、点燈夫の星と一緒に落ちていったよ……暗い、天体のしじまの底に。「花のいうことなんかきいちゃいけない……花はながめるもの、匂いをかぐものだ」って、あれほど教えてあげたのに、言う通りにしなかったから。 <中略> あたしにはちゃんとわかってるんだ、あの女(パパのこと)はおまえをダシにして、男に変装して逃げようとしたんだ。それを自分の口で言うのを、あたしはドアのかげで、ちゃんとたしかめましたからね。あの女は、夜中に出てきて花を食べてしまうヒツジだよ。あたしの済んでいるこの小さな星に、めいわくをまきちらす、疫病つきのヒツジなんだ! <中略> 何てきたならしい……何てむごたらしい……でも、ほんとのことってのはみんなそうなんだ……一皮むけば、みな地獄! お月さまの裏側の成分を科学するあばたの学者! 童話殺し! でも、おまえには、まだ、ほんの少しだけ、救いがないって訳じゃない。
点子
それは……?
ウワバミ
あたしの言う通りにすることだよ……「星の王子さま」になりきってしまうことだよ……何百万の星のどれかに咲いている一輪の花をながめてくらす……
点子
でも、あたしには花なんか見えない
ウワバミ
見えないものを見るんだ! 見えないものだけを見る。
点子
でも、そうしたら 見えるものが見えなくなる!
ウワバミ
いいじゃないの! そんなもの。今まで見てきたものなんか、みんな捨ててしまえばいいんだ……すると、ほら、見えないものが見えてくる! 作りもの……作りもの……でも、作りものは安心よ、決してあたしを傷つけないから。

星の王子さまに感じる現実的な違和感は、『ほんとうに大切なものは、目に見えない世界にある』という定義だろう。
もちろん、それも真理だが、『目に見える世界』にも大事なものはたくさんある。
たとえ、それが愛や優しさや正義といった美しいものでなくても、憎悪や裏切り、矛盾などから学ぶこともたくさんある。
そして、多くの場合、世の中を改革する動機は、世に対する怒りや失望から生まれる。
愛も大きな動機ではあるが、怒りや失望も同じくらい人の心に火を付けるものなのだ。

しかしながら、こうした醜い側面と向かい合うには勇気と強さが居る。ある人は目を背けるだろうし、ある人はあまりの酷さに投げ出してしまうかもしれない。
本当に大事なものは目に見えない世界にしかないのさ……と、うそぶけば、自分自身は傷つくことはない。
なぜって、愛や優しさや正義は絶対善であり、そちらの側に回れば、誰にも非難されることはないからだ。

そうして、ずっと穴の中に閉じこもり、望遠鏡を覗いているだけの人間に、どんな革命が起こせるだろう。
世界が向こうから頷いてくれるのを、じっと待つだけだろうか。

私たちは星の王子さまであると同時に、大地でしぶとく生きる人間であることも要求される。
見たくないものもしっかと見つめ、目の前の事象と対峙できる者が、現実には問題を解決し、地上的な幸福をもたらす。

点子
この壁のうしろに、青い空だなんて、ある筈がない…… どうせ、あるのは、紙の星と、豆電球の天の川! いつまでも、いつまでも、大人になりきれない「星の王子さま」! きたないものを見ないふりをするごまかしの童話!

点子の叫びと共に、舞台のセットもがらがら崩れ、点子は「童話がくずれる……そして、ほんものが見えてくる」と気が狂ったように笑い出す。

それに対して、ウワバミは言い返す。

ウワバミ
あんたは、おもちゃをこわしてしまった。人形の手をもぎとり、言葉をねむらせた……でも、言葉がねむってしまうと、目をさますのは、あの世界だけ! 早く終わりすぎてしまった芝居は、おそろしいあの世界に引継がれる……

「おそろしいあの世界」というのは現実。現実に引き戻される……という意味でしょう。

茫然とする点子の前に、三人の観客が現れ、「いつまでも、ほんとだのうそだのって言ってること自体がさ、子供っぽいんじゃないの!」と指摘する。

それに対して、点子の反論。

点子
うまく化けることのできないって人もいる。お芝居と同じように、人生にも上手な人と下手な人がいるのよ。酔っ払ったパパがなけなしの鞄とスポーツ新聞を小脇にかかえて居眠りしている終電車! もう何年も、星をかぞえたことのない東京中の100万人のパパ! 受験戦争にくたびれて、深夜放送のラジオから「星の王子さま」の声がきこえてくるかと、心待ちにしているイクマ・マサキくん。みんな星を見ましたか? ほんものの星を! この、すぐ上にあるのは幕です。幕の上にあるのはボーダーです。新宿文化劇場の屋根があります。ネオンはありません。でも、星はある筈です。ほんとの星はある筈です。たぶん、今夜も見えないかもしれないけれど、紙でも豆電球でもない星がある筈です。みんな、ここを出たら空を見上げて下さい……言葉がねむると、あの世界が目を醒ます……たとえ見えなくても星は光っているんです。でも、あの星もお芝居なの?

この作品で、秀逸と思うのは、点子の最後の台詞。でも、星がある筈です。ほんとの星はある筈です。
これが寺山修司の一番言いたかったことではないかと思う。

舞台には、ウワバミが部屋中に吊すニセモノの紙の星や、望遠鏡の向こうに輝く星(本当に存在するのかどうかも分からない)が登場する。

でも、そんな作りものやまやかしではなく、自分が今住んでいる世界――この現実社会で、不器用に生きながらでも、見ようと思えば見える星がある……ということだ。

それはこの現実社会でも確実に存在する星であり、ウワバミが譫言みたいに繰り返す夢の星とはまったく異なる。

目には見えない美しさに拘らなくても、地上の一切を否定しなくても、星はちゃんと頭の上で輝いているし、酔っ払いにも、落伍者にも、『本物の星』を見つけることは十分に可能なのだ。

その機知こそ、大人の証ではないか。

どうせお芝居なのさ
ゆめから抜け出せずに
星の王子さま いまでも読む子よ
夜空を仰ごう

言葉が
死ぬとき
めざめる
世界がある

人はいつから大人になり、子供時代に別れを告げるのかは分からない。
大人と子供を明確に区別する境界線きもない。

だが、星の王子さまの世界観に別れを告げ、目の前の現実と対峙した時、はじめて開く心の眼もある。

「目に見えない大切なもの」だけでなく、「目に見える嫌なこと」や「目に見える醜いこと」と闘うのも、また気高い人生なのだ。

私たちは時に子供時代の自分自身に叱られ、恨まれ、最初に思い描いていたのとはあまりに異なる現在に失望することもあるだろう。

それでも紙の星を崇め、望遠鏡を覗くことを止めれば、ほんものの星の輝きに気付くこともある。

サン・テクジュペリの星の王子さまは美しい名作ではあるが、私たちの泥臭い生き方にもそれなりに価値があるのだ。

素敵な台詞

ウワバミいわく、「天の川は流れが速いから、誰も泳いじゃいけないって言っておいたのに、キツネが泳ぎわたろうとして、流されて……それを助けようとして、人がいっぱい上にのったので、堤防がケッカイして、とうとう星が氾濫しちゃった……ほら、星が洪水を起こしているでしょう」。

そこで、大工。

大工
天の川の堤防が決壊したので、修理をしにゆくんだ

『天の川の堤防』という発想がいい。
キツネは友達だから、皆が助けようとするのは当たり前なのだけど。

ウワバミ
星ばかり見ていたから、ほかのことを知らないうちに年をとってしまいました。

星に限らず、自分の見たいものしか見ない、見たくないものは見ない、という人は多い。
そうして、ほかのことは知らないうちに年だけとって、いつか問題と対峙した時、慌てふためく。

ウワバミ
食べるかい? この世で一番小さい星だ!
点子
コンペイトウ!

世界で一番小さい星=コンペイトウという発想がいい。

随所に詩的な表現がちりばめられているのが、寺山戯曲の魅力。

現実社会で星はいかに輝くか

寺山修司の戯曲というと、『毛皮のマリー』や『邪宗門』『血は立ったまま眠っている』あたりが有名で、『星の王子さま』は世間一般にはあまり知られてないように思うが、皮肉が利いた面白い作品だと思う。

何も考えずに読めば、ずいぶん意地悪い見方をする人だ……と思うかもしれないが、作中でも繰り返し指摘されるように、サン・テクジュペリの星の王子さまには、「見たくないけど、見ざるをえない世界」とどう向き合うかという処方は書いてない。
否応なしに童話の世界から追い出され、現実と向き合うしかない大人はどう生きていけばいいのか、誰も明確に答えてはくれず、今更、星の王子さまを読み返しても、救いにも、慰めにもならない……というのが実状ではないだろうか。一瞬童心に返ったとしても、明日からはやはり背伸びしたり、嘘をついたり、「いやな大人」として生きていく。美しい真理を知ったところで、現実社会は、それとは異なる方策を必要とするからだ。

だが、崇高な星の輝きは、現実に藻掻き苦しむ大人を決して見捨てたわけではない。

それらは確かに私達の真上に存在し、強い輝きを放っている。

それに気付けば、酔っ払いにも、落ちこぼれにも、星を掴むチャンスはあると分かるはずだ。

もしかしたら、童話の中で見つめる星よりも、勝利の輝きに満ちているかもしれない。

憎んでも、躓いても、私達はこの現実社会の住人だ。

たとえそれが誤りと分かっても、聖人君子にはなれそうにない。

それでも生きる。

生きていく。

そして、いつの日か、自分の頭上にも輝く星があるのに気付いたら、この現実だって変わるのではないだろうか。

最後に寺山修司の「あとがき」から。

レズビアンバーや宝塚OBの協力を得て、天井桟敷によって初演されたこの戯曲は、「毛皮のマリー」と同じように大入り続きで日延べ公演までやった。ただ、この作品が「毛皮のマリー」とちがうのは、ラストシーンの崩壊である。「星の王子さま」のさし絵のような装置が屋台くずしで崩れ、メイクをおとして素顔に戻った俳優たちが出てくる手法は、その後「邪宗門」へと展開されてゆくものだが、ここで初めて試みられたのである。「少女コミック」、宝塚少女歌劇、サン・テクジュペリの童話、といった「少女的なるものの政治学」が私の関心であり、同時に前年までの天井桟敷風俗の自己否定をはらんだのがこの作品である。その意味で、「毛皮のマリー」よりも多くの問題を内包し、私自身にとっても愛着の多い作品となっている」

「愛着の多い作品」というのは分かる気がする。

『自己否定』というのは、「こうあるべき」に囚われて、現実と対峙しようとしない若人への警告も含まれるだろう。

お前ら、理想も分かるが、世間も見ろよ。

現代に生きても、多分、同じことを言った気がする。

本作は、この文庫本の最後に収録されています。

Amazon Kindle 電子書籍

sanmarie*comに掲載していた【「親 死んでほしい」「親 殺したい」で検索する人が多いので】の電子書籍です。心理学者・河合隼雄の名著『家族関係を考える』で紹介された『内面的な親殺し』と、父親殺しを描いたギリシャ悲劇『オイディプス』の物語をベースに、なぜ「親 死ね」「親 殺したい」といった感情が芽生えるのか、乗り越えるには何が必要か、分かりやすく解説しています。
作品詳細と冒頭部の無料サンプルはこちら。https://novella.one/oya-book

寺山修司カテゴリの最新記事

Top