母の呪いと子の彷徨 愛憎の輪廻 ~寺山修司の『身毒丸』

母の呪いと子の彷徨 愛憎の輪廻 ~寺山修司の『身毒丸』

寺山修司の作品を読んでいると、母親というのは、それほど醜悪で、身勝手なものかと哀しくなってくる。

そこには、夜なべをして手袋を編んでくれるような、優しい母の姿はない。

放校されたエジソンに、根気よく理科や算数を教えるグレートマザーの姿もなければ、我が子をかばって猟師に撃ち殺される、健気な母鹿の姿もない。

鬼婆みたいに、自分の生んだ子供を頭からガリガリ食べてしまうような、奇怪で、自己中心的な母が在るだけだ。

『毛皮のマリー』をはじめ、短歌にも、詩にも、母をテーマにした作品は数あるが、『身毒丸』の異様さは群を抜いているように感じる。

どこがどう異様かといえば、恐ろしくストレートに母子の生物的な繋がりを描いているからだ。

子育てエッセーの草分けといわれる伊藤比呂美さんの『コドモより親が大事 (集英社文庫)』という著書だったか、「母親は自分が生んだものだから、子供の生殺与奪を好きにしていいと思い込んでいる節がある」みたいな一節があり(本が手元に無いので、正確ではないし、本当に伊藤氏の言葉だったかどうかは定かでない。もしかしたら田島みるく?)、白雪姫も、シンデレラも、子供読者を意識して『まま母にいじめられた』という設定になっているが、実は生みの母であり、たとえそうだとしても「子も、母も、納得する」という結論だった記憶がある。

つまり、母親の中には、『子殺し』とまではいなかくても、自分の指先一つで、子供の命運などどうにでもできるような思い込みがあるし、子供の中にも、「自分は本当は母親に疎まれ、殺されてしまうのではないか」という恐れがある――というわけだ。

実際、母親にとって子供は『自分の肉体から派生した、一個の塊』みたいな感覚があるし、日々の触れ合いの中で度合いを深める父親の情愛とはまったく質が異なる。胎内に宿った瞬間から、子供は自分のもので、肉体の一部でもある。その一体感があればこそ、深夜も頻回に起き出して母乳を与えるし、歩き始めた子供の癇癪に振り回されながらでも、遊び、食べさせ、風呂に入れ、文字通り、我が身を削って、子供の養育に全力を尽くす。だが、それも裏返れば、醜悪なモンスターとなり、世話してやった見返りや絶対服従を求めるようになる。そして、寺山修司の作品に登場する母親は、たいがい、後者の方なのだ。

戯曲『身毒丸』も、母子の物語ではあるけれど、通常の母子とは天地ほどかけ離れ、その言動も地獄なら、性根も地獄、まさに蛇のようにネチネチと子供に絡み、ついにはその命を呪うに至る。

もっとも、”しんとく”が『母』と呼ぶ人の正体は、見世物小屋で買ってきた蛇娘で、生みの母ではない。生みの母は、幼い”しんとく”を庇って、火事で焼け死んだ佛のような人で、”しんとく”には何の記憶もない。いわば、瞼の母をずっと夢見ているような少年だ。まま母と連れ子”せんさく”との暮らしは、家族の体を成してはいるけれど、どこか表面的で、ぎこちない。そんな中、まま母への不満を語り、生みの母への慕情を滲ませたが為に、しんとくは、まま母に呪われ、目に癩病を患う。だが、眼の潰れた”しんとく”は、まま母に化け、連れ子の”せんさく”に病をうつし、最後は、母の化身にばりばり食い殺されるという、なんともシュールな物語だ。

ここに描かれているのは母子愛などという美しいものではない。自分の思う通りに愛を返さない子を呪う母親と、『母親』というものに永遠に片思いしている少年の哀れな憧憬だ。見世物小屋で母親を買ってきたところで、それは決して理想の母ではないし、母の方も、子供のそうした疑念や抵抗が分かるから、簡単に子殺しができる。自分が生んだものは、もう一度、自分の腹の中に収めてしまえばよい。それは殺しでも呪いでもなく、排泄したものを回収するだけという、なんとも身勝手な理屈である。

そして、それをデフォルメされた舞台劇と受け取るか、台詞の向こうに生々しい母親の本能と、子の永遠の片思い、母には抗えぬ子の宿命みたいなものを感じるか否かで、作品の印象も大きく変わってくる。台詞と演出だけに目を奪われたら、奇怪な話でしかないが、これも一つの母子の真実に違いなく、子供の目には、母親は毒にも菩薩にもなるのだ。

父 「どうだ、しんとく。あの圓髷(えんまげ)の女は?」
しんとく 「……」
父 「お父さんは気に入ったぞ。面痩せては見せるが、鼻筋が通っている。死んだお母さんより、ずっといい女だ」
しんとく 「あれは蛇娘だよ、お父さん」
父 「見世物のいかさまを真に受ける莫迦がどこにある」
と、寝姿の美しい女を、後妻にえらびます

場面は変わって、国民学校。

”しんとく”の級友が、髪切虫を持ち歩く”しんとく”のことを女教師に告げ口する。「先生、しんとくは、その虫でお母さんの髪の毛を全部たべさせてしまうのだそうです!」

先生 「どうしてそんなことをするのです?」
しんとく 「ぼくの母はまま母なんです」
先生 「まま母だって、いい母親は一杯います。聞くところによると、あなたのお母さんはとても信心深いというじゃありませんか」
しんとく 「佛様を可愛がることで、子供をいじめることを差し引きしようとしているんです」

<中略>

しんとく 「もしかしたら、先生の正体はぼくのまま母のお母さんなんじゃありませんか!」

親への不満を抱えた、ある年頃の子が、周りの大人に親の姿を重ね見る――というのは、よくある心理。何処へ行っても、誰と会っても、親の陰が重なり、大人はみなグルと思う。

じっと汗ばむ手のなかの 家族あはせの 母札は 夜の小川に流さうか
それとも空き地に 埋めやうか
ひとり去きたい あの町こえて
いんであなたの顔みたい
寺へ三年 米屋へ五年 奉公しやうか 家出よか
鬼のまま母 また洗ひ髪
白いうなじが うつくしい
憎い 憎いと
じゃまものにされ
いつのまにやら 土人形
土の人形も あなたを追ふて
町をこえればひとになる

「憎い 憎いと じゃまものにされ いつのまにやら 土人形」

母親に疎まれたら、だんだん自分が意思も感情もない空っぽの人形みたいに思えてくる気持ちは分かる。子供の中の、究極の虚しさ。

それに続く「あなたを追ふて 町をこえればひとになる」の解釈は難しい。

それは目の前のまま母を追うのか、それとも瞼の母を追うのか。

いずれにせよ、この場に自分を人たらしめる愛も安らぎもなく、遠く去らねば、自分の存在を客観的に確かめることができないような苦しさ。

さて、ここで怪人・柳田國男博士が登場。

「今日はもう、電球売りじゃないんですね」という”しんとく”の問いに答える台詞がいい。

あれはやめたよ。電気の球は、じぶんが明るくなるだけで、家そのものを明るくするわけじゃない。しかも、電球の下を明るくすると、その分だけまはりが暗くなる。暗いところでは、いつも侏儒が畳をめくって田を打っている。農作不作、電気の悪魔だ。

『世の中を明るくする』といわれるものは、たくさんある。笑顔、親切、思いやり、励まし、等々。

しかしながら、明るくなるのは気分だけ、問題の本質は少しも変わらず、電球でごまかしているだけ……としたら、どうだろう。失業して落ち込んでいる人に笑顔や励ましを送っても、気分的には明るくなるけど、仕事まで見つかるわけじゃない。そうした「明るさ」に目眩ましされて、私たちは問題の大本を解決する――という一番肝心な部分を見おとしているのではないか、という話。これは少々、意地の悪い解釈かもしれないが、善意や元気の目眩ましは至る所にある。

そんな柳田博士が、今、売っているのは『穴』。

博士 「これ一つで、世界中に出口ができる。ゴムのやうに、のびちぢみ自在、持ちはこび自由、かうして、小さくたたんで、のぞき穴にすることも、床の上にひろげておいて、おとし穴にすることもできる」
しんとく 「信じられない。穴を持ち歩くことができるなんて」 
博士 「ホラ、かうやって、土面におくと、それでもう、下へ降りてゆくことができるのだよ」

世界中に出口のできる『穴』があれば、便利だね。世の中の、心の死の大半は、行き場がなくて死んでしまうから。

かくして、”しんとく”は、穴を伝って、地下の冥界へと降りてゆく。

♪ かごめ かごめ かごのなかの母は いついつ出やる
よあけの晩に しんとく丸が 笛吹いた
うしろの正面 だぁれ?♪

ぼくのほんとの母は、ぼくを産んだために死んだ、と言ふことだ。徳福を願って、神の憎みをかうむったのだ。それは火事の夜の出来事だった。炎に包まれたぼくを抱いた母鳥に父は言ったのだ。「命があれば、子をば儲けてまたも見る」と。だが母は「一つの巣ごもりになるだにも、世にも不憫と思ひしに、この子においてはえ捨てまい」と、おのれを野火に焼け死んで、ぼくの命を救ったのだ。ぼくは、その佛の母の顔がみたい。見てはいけない後ろの正面、あなたの顔を見てみたい!」

と振り向いてみれば、まま母であった。

そこで悪夢は消えて、人間を消せる消しゴムのエピソードを経て、舞台にまま母が登場する。

ほらほら、これがわが子の連れ子。見世物小屋から、買はれてきた、うしろゆびの小学生。これも観世音の、前世のたたりかな。もとはといえば、長男だったものを、何の因果か、この家に嫁ぎきて、花とは見えぬ夏草の、しんとく丸を兄と呼び、家継ぐことも、かなはざる。

でも、せんさくや、安心おし。

ことあるごとにわたしに楯つく、あのしんとくは、母の呪ひできっと早死にさせてやるからね。この卒塔婆には、ホラ、しんとく丸の戒名がもう十五文字。

そして、しんとくの戒名を書いた卒塔婆を取り出して、六寸釘を当て、金槌をふりあげたところに、目隠しをした”しんとく”が入ってくる。

まま母と、生みの母を勘違いしたしんとくは、まま母に抱きつき、

しんとく 「ぼくは今、まま母にいじめられて、まんじりともせぬ夜をすごしてをります。お母さん、ぼくは先だって逝ったあなたを恨んでいる」

まま母 「そうかへ、そんなひどいまま母なのかへ」

しんとく 「はい、おっかさん、あれは鬼です。お父さんは、どうしてあんな女の色香に迷ってしまったのやら」

まま母 「その女は、おまへを可愛がっておくれではないんだね? <中略> かわいいわが子の”せんさく”のため、おまへさんには気の毒だが、ひともきらひし、異例を授くるのさ …… 身毒丸は十八歳、十八本の釘を打つ。月の七日が円実で、七日七本釘を打つ。そりゃ、一本! つづけて二本! 目が癩病 景色がくさる……まなこ つぶれろ ままこ しね しねしねしねしね なむあみだぶつ」

ここまでくると異様の極み。

うっかり、母への不満を耳にした”まま母”は、わが子に復讐する為に、釘を打って、目を潰す。

目を潰すのは、『瞼の母』を葬るため。

息子の心を独り占めする理想の母を滅ぼし、憂さ晴らしするわけだ。

そして、盲目になった”しんとく”もまた、まま母に復讐するべく、その連れ子である”せんさく”の前に化けて現れ、病をうつす。

しんとく 「そうさ、あたしはおまえの兄の”しんとく”だよ。おまえの母親に呪われて癩病にかかり、かうして皮膚もまだらに溶けかかる。顔はにんげん、体は畜生、夜になりゃあ、純情可憐の鱗が光るんだ!」

せんさく 「何しに帰ってきたんだ、しんとく」

しんとく 「おまへを可愛がってやらうと思ってね。ぼくを呪ひ捨てたまま母の仮面をつけ、まま母に化けて帰ってきたのさ。どうだい、似合ふだろう? この緋縮緬」

せんさく 「来るな、癩病がうつる」

しんとく 「そう、兄弟は一つだ。おまへにも同じやうに癩病のたのしみをわけてあげるのさ。死ねーッ!」

そして再び、父・まま母・しんとく・せんとくが向かい合い、最後の呪い合い。

まま母 「ああ、しんとく、許しておくれ。わたしはおまへさんに好かれたかったのだ」

しんとく 「だが、ぼくはおとなになるのが、おそすぎた」

語り手 「おとなになるのが、おそすぎた。子供でいるにははやすぎた。子守歌など唄ってやるには、もうおとな。抱かれ寝るには、まだ子供。八十九十百まで添うて、死んで、別かるる中でさへ、花のうてなが露ほどの、神も許さぬ、母と子の」

しんとく 「お母さん! もう一度、ぼくを妊娠してください!」

<中略>

まま母 「もういちど、もうにど、もうさんど、できることなら、おまへを生みたい、おまへを妊娠してやりたい」

しんとく 「地獄!」

暗闇の中から、それぞれ思ひ思ひの意匠をこらしてあらはれてくる母、母、母、すべての登場人物、母に化身して、唇赤く、絶叫する裸の少年しんとくを包み込み、抱きよせ、舌なめずりして、バラバラにして、食ってしまふ。鬼子母神の経文、巡礼の鈴の音。そして、すべては胎内の迷宮に限りなく墜ちてゆき、声だけが欲しあって消えてゆく。

台本だけ読んでいたら、頭がオカシクなりそうな内容。なぜ母と子がここまで狂うのか、通常には理解しがたいが、おどろおどろしい演出を取っ払って、本質にフォーカスすると、『母親への不満を抱く少年』と『息子に裏切られた母』の姿が見えてくる。ここでは「まま母」という設定だが、実母であっても、継母であっても、大きな違いはない。少年の心には、「目の前の母」に対する不信と不満があり、「どこかに本当の母がいるのではないか」という妄想に救いを求めている。「本当の母」は佛のように慈愛に満ち、胸に渦巻く不信や不満を優しく癒やしてくれるはずだ――。一方、母は、そうした子供の不信や不満をひりひりと感じ、我が子がうっかり漏らした不平不満に憎悪をつのらせる。こうした呪怨は決して特殊なものではない。現に、子供に嫌われているのを感じ取り、ますます子に厳しくしたり、折檻や無視に走る母親は少なくない。子供にとって最悪の懲罰は、愛も食事も取り上げて、荒れ地に放り出すことだと知っているからだ。

そして、母の呪いを極めれば、次の世も「自分の子に産んでやる」という事になる。子供は親を選べない。できれば、菩薩のような人の元に生まれたいと願う。だが、呪われた子供は、再び鬼のような親に生み育てられ、生き地獄を味わう。さながら輪廻の囚われ人みたいに、繰り返し、繰り返し。

地獄というなら、愛することも、憎むこともできず、運命の片割れみたいに、へその緒で繋がれる肉体的な繋がりそのものではないか。

あなたはわたし、わたしはあなた。

母の胎内から生まれ出る限り、「他人」にはなりきれない。

まるで一つの生を生きるみたいに、未来永劫、繋がっている。喰らっては生み、呪われては死にながら。

母親の悪口を言うと、呪いの五寸釘を打ち込まれる……というのは、多分、ほんとです。

身毒丸 寺山修司

身毒丸 寺山修司

身毒丸 寺山修司

装丁を手がけた方のクレジットが無いのです。「華宵」さん?
身毒丸 寺山修司

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上記のレビューは舞台・未見です。戯曲だけ読んで、台詞から受けた感想を書きました。

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