文学への愛は時代を超える 手塚富雄のあとがきより

海外の小説

本人と直接会ったことはない、まして同じ時代に生きているわけでもないのに、その人の存在がすぐ目の前に感じられることがある。

私にとっては、ドイツ文学者で、翻訳者でもある手塚富雄氏がその一人。

手塚氏の『ツァラトゥストラ (中公文庫)』がなければ、ニーチェの永劫回帰に辿り着くことはなかったし、人生の目的もまったく違ったものになっていただろう。

一昔前に生きた人の書いたものが、なぜ心に響くのか。

それはひとえに真理であり、作品への愛が溢れているからだろう。

手塚氏の解説を読んでいると、ドイツが好き! 文学が好き! この素晴らしさを広く世に伝えるのがわたしの務め! みたいな使命感がひしひしと伝わってくる。
先の時代にこのような人が存在し、生涯かけて優れた書物を残してくれた事実に感謝せずにいない。

あとがき

限られた分量で、ひとつの国の文学の大体を紹介することは、そんなに楽な仕事ではない。網羅的な文学史の書けないことは、初めからわかっているが、「案内」とあるからには、文学史的要素ももちろん無視するわけにはいかない。ところで私自身の経験によると、文学史ほど頭に入らないものはない。なんべん読んでも忘れてしまうのである。あんまり要領よくムダがなく書いてあるから、全部がムダになってしまうのかもしれない。

そこで私は、この本では、文学史的なことを書く場合でも、日本の小説に「私小説」があるように、「私文学史」を書くことに態度を決めた。公的になろうとするあまり筆者が姿をかくすのではなくて、意識的に筆者自身を貫くのである。

そうは決めても、書いてみると、思うほどにはいかず、やはり公正・中正癖が出がちではあるが、時にはわざわざ「私」ということばを使ったこともあるし、自分が不在にならないように気をつけたつもりである。そうすれば読者を生きた交渉ができ、反論・反撥によってさえも、読者を誘うことができると思ったからである。

つまりこの書は提要書ではなく、提要書としては落丁だらけだが、その代り、生きたものを読者に提供して、ドイツ文学の生命そのものを少しでも伝えたいと思ったのである。少しでも生きた興味を読者が感じられれば、次には自分でその世界へ入ってゆくだろう。ただそのことを目的とした。そのほかに筆者が気を付けたのは、細目の知識より、全体の大観、とくに時代の推移についての考察である。

1963年2月

『なんべん読んでも忘れてしまうのである。あんまり要領よくムダがなく書いてあるから、全部がムダになってしまうのかもしれない。』の下りが泣ける(T^T)
そこに人間性が凝縮されているような。
だから、ツァラトゥストラもあれほど真摯で、胸に迫るのだろう。
人としての迷いや弱さを知り、謙虚な心があるから。

ツァラトゥストラでも、人々の中に降りていく超人の姿が描かれる。
悟りを得た者は高所から説いて聞かせるのではなく、人々と同じ大地に立ち、共に考え、共に学ぶ姿勢が大事ということ。

手塚訳の真髄は『忠実さ』と『わかりやすさ』にある。

常人が及びもつかないほど博識だけれど、その解説は手取り足取り、ドイツ文学のエヴァンジェリストの如く。

そして、私はページをめくる度、ニーチェやゲーテの息づかいを間近に感じることができるのだ。