小説を書くにあたって、細部までプロットに凝る人もあると思いますが、私は小池一夫氏の唱える「キャラが立つ」派で、最後は全てキャラに任せて、好きなようにさせるタイプです。
何故かといえば、物語を引っ張るのは作者ではなく、キャラクターだからです。
たとえば、執筆前に「主人公とヒロインは、最後に心中する」というプロットを立てていても、本当にキャラの気持ちが分かってくれば、「彼等が簡単に死を選ぶとは思えない」という考えに変わることもあります。
作品の世界観が完成され、キャラと一体化すれば、自分の思惑よりも、キャラの感情や価値観の方がはるかに優るようになるからです。
そこで、「いや、この作品は、最後は絶対的に心中させなければならない」という結末に拘ると、物語もどこかで破綻し、読者が見ても、「はぁ? この性格で、ヒロインに手を掛けて、自分も自死しちゃうわけ? 有り得ないでしょ!」と違和感を覚えるはず。
最初から最後まで、プロット通りの性格であればいいけども、キャラと一体化するにつれ、書き始めと書き終わりでは、キャラの造形が大きく変わることもあります。
そこでプロットに固執すると、こじつけみたいな話になり、「納得のいかない結末」に終わってしまうんですね。
これは伝聞ですが・・
アイスランドの誇るミュージシャン、ビョークが異色のミュージカル映画『ダンサー・インザ・ダーク』に出演した時、主人公のセルマ役にあまりに入れ込んだが為に、セルマの言動をめぐって監督と大げんし、ついには撮影現場を飛び出したそうです。(映画パンフレットか映画誌に書いてあった)
映画のコピーにも「ビョークはセルマ、セルマはビョークだった」とあるように、ビョークの演技は、演技を通り越して、「一体化」としか言いようのないものでした。全身全霊でセルマという女性を理解したからこそ、監督の脚本や演出に違和感を覚えずにいられなかったのでしょう。
二人の対立がどのような形で決着したかは知りませんが、特に醜聞はなかったことから、良い方向に落ち着いたのだと思います。映画も、サントラも大ヒットし、ビョークの名声を不動のものにしました。
でも、それが役柄と一体化した人の正直な気持ちだと思います。
ビョークでなくても、役者が監督に粗筋の変更を迫るエピソードはよく耳にしますし、それは小説も同じことではないでしょうか。
キャラと一体化すればするほど、プロット通りにいかないのが普通だと思います。
何故なら、キャラは、あなたとは全く異なる背景や価値観の持ち主であり、「あなたの想像を超えるのが当たり前」だからです。
私はそれを「掘り出す」と呼んでいるのですが、ある意味、作家と役者は似たようなものです。
彼等の台詞や考えや行動を書いている時は、完全にそれになりきっています。
私もたまに独り言を言ってる事があります^^;
自我(プロット)というものを離れて、完全に、キャラの立場で考えるからこそ、最初に予定していた筋書きを超えて、全く新しい、自分でさえ想像だにしなかった台詞や行動、彼等の決断が見えてくるのではないでしょうか。
また、そのように、思いもしなかったキャラクターの一面を掘り出すことが、執筆の面白さでもあると思います。
ゆえに、私はプロットよりも、キャラクター重視だし、最後は彼等に任せて、決着させるんですね。
その方が、はるかに自然にストーリーが落ち着くのです。
下手にプロットに固執すれば、それに併せる為に、キャラの言動を不自然に歪めることもあるでしょう。
「絶対的に結末はこうでなければならない」という決まりはどこにも無いのです。
恐らく、途中で行き詰まっている人は、頭の中だけでキャラクターを理解し、プロット通りに行動させようとするから、自分でも違和感を覚えて、そこから先に進めないのではないでしょうか。
それより、もっと自分のキャラクターを信じましょう。
「自分がどうあるべきか」は、キャラクター自身が一番よく知っています。
その声を聞いたなら、過去に遡って、粗筋を修正する潔さも必要です。
「絶対的に結末はこうでなければならない」という決めつけは、時にキャラクターを窒息させ、せっかくの魅力を半減するものです。